「世界のトヨタ」創業者の冒険

日本最大の企業にして世界の自動車業界に君臨する、トヨタ自動車を知らない人はいないでしょう。でも、その始まりは、今の規模からは想像がつかないほど苦難の連続でした。まだ世間が自動車の素晴らしさを認識すらしていなかったなかで、大冒険に打って出た創業者・豊田喜一郎はどのように会社を軌道に載せたのでしょうか。


日本人の手による自動車生産を決意

1923年に関東大震災に襲われた東京で、復興の力として注目されたのが自動車でした。急激な需要増加を受け、アメリカのフォードやゼネラル・モーターズが相次いで日本国内での自動車生産を開始。日本でも国産車製造の機運が湧き上がるなか、豊田喜一郎はアメリカ資本に頼らない、「日本人の手」による自動車生産を決意しました。

素材も部品もゼロからつくる

喜一郎は当時、父・豊田佐吉が独自で発明したG型自動織機を生産販売する豊田自動織機製作所の一社員でした。関東大震災から10年後の1933年、喜一郎は社内に自動車政策部門を設置。アメリカから手に入れた完成車を分解・研究し、試作車を作るところから始めました。
しかし、まともな自動車など国内では誰も作っていなかったわけですから、ボディを構成する素材も部品もすべて自前で作る必要がありました。外部の企業に協力を仰ぐにしても、自動車の可能性など全く理解されていなかった時代ですから、説得するだけでも相当な苦労を要したに違いありません。

「決意」から必要なことのすべてを逆算する

それでも喜一郎は、「日本人の手で、国産自動車を作る」という決意を、技術者や工場従業員、販売員に情熱をもって説き、その目標から逆算して、今解決すべき課題は何かを、すべて自らが先頭に立って実践することで針路を示しました。リーダーの喜一郎自ら油まみれになることも厭わず、部下たちとともに製造現場で毎日何台に取り組んだといわれます。そのひたむきさは、周囲の人間たちへの最強の説得材料となったのです。

まとめ

困難な問題に直面すると、何も実践しないうちからできない理由ばかりを列挙する人っていますよね。手間がかかるから、これまでに前例がないから、家族が病気だから、などなど。困難にさせているのは何であるのか、それを排除するには何をすればいいのか、その答えを一つ一つ探ることが、困難を和らげ、誰もが思いつかなかったことを現実化することに繋がる。それが「世界のトヨタ」の源泉ではないでしょうか。

参考書籍:大西肇著「『今はまだ小さな会社』が進化するための101の手がかり」(合同フォレスト刊)

    
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