左目を失った義眼のピーコに学ぶ「ひとのために」の意識

オネエキャラブームより前に芸能界で活躍していたピーコ。おすぎとピーコとして有名です。いつも元気なピーコですが、実は左目を失ない義眼となっていたのです。「ひとのために」の意識がなかったのが原因だったとピーコさんは語ります。「ピーコ伝」より左目を失ない義眼となったエピソードを紹介します。


■自分さえ気持ちがよければよかった

わたし、一九八九年に、左目を病気でとっちゃったでしょ。それからこっちは、自分がなにか生かされているっていう気がいつもどこかでしていて、なんとはなしの使命感のようなものが心の片隅にあるのね。でも、それまでのわたしはデビューする前から一貫して、もう、ふわふわ、クラゲみたいに漂って生きてました。職業もちゃんと決まらなかったし。

だいたい、ずーっと目的がなかったんだから。ふわふわ、ゆらゆらっと。でも、それって楽に見えるけど、一方で不安定でしょ。そんなとき自分の心を落ち着けるものって、なにがあったのかな。

男(笑)。次から次へと好きなタイプの子を見つけて、追っかけて貢いでるだけっていうときもありました。だけど体の関係を持つわけじゃないからね。芸能界って、好みの子を見つけようと思えば、さすが選りすぐりが集まってるだけあって、すぐにひとりやふたり、見つかるのよ。それをはげみにして仕事をしてた、というか……。

考えてみると、他愛のないことで心を落ち着けてきたのね、わたし(笑)。もちろん、仕事はちゃんとするのよ。でもその仕事の意欲がどっから湧いてくるのかっていうと、「その男に会いたい」とか、そういうことでやっているんだから。

いまだって、そんなにたいそうな目的を掲げて生きてるわけじゃござんせんから、ま、「意欲」の源泉なんて、多かれ少なかれそんなものなのかもしれないけど。それからね、ふわふわ漂って生きてるんだけど、学校がきらいじゃなかったのとおんなじで、わたしは職場も好きだったわけです。サンヨーレインコートにいたときも、会社の仕事の値札つけなんてのはイヤなんだけど、営業がハンサムばっかりだから、その顔を見ているのがすごく好きだったし(笑)。

芸能界に入ってからもいっしょ。一週間に一度行くスタジオでも、そこの出演者やスタッフの女の子とはすぐに仲良くなっちゃうの。で、女のレポーターなんかとギャーギャー騒いでるじゃない? それで、男のディレクターの中から、ひとりぐらい好みの子をチェックしておけば……、あとは我慢して仕事をする。で、仕事がはねたら、街に繰り出して、友だちとつるんではぎゃあぎゃあ騒いで、「ああ、今日も楽しかった!」

これが毎日、延々と繰り返されるわけです。刹那的といえば刹那的ね。遊んでいたのは、六本木とか西麻布とか、いわゆる遊びの街だけど、つくづくあそこでカネ使って無駄だったなあ、ってところは新宿二丁目。だって、あんなところに、一時は毎晩通ってたのよ。我ながらバッカみたい。テレビが終わるのがだいたい夜中の二時ぐらい。で、そのあと朝の四時くらい、夜が明けるまで、延々飲んでるのよ。友だちといっしょに。それが毎日。あるとき、「この生活はむなしい」って気づくんだけど、当時のわたしはおバカだったわけでして。

だからお酒飲んでキャーキャー騒いでるとそれだけで楽しかったわけ。二丁目のバーの薄暗がりのかたすみで、汚い男同士がキスしてると、「なんで、あんな汚い男同士でキスできるのかしら! 信じらんない!」なんて自分のことは棚に上げて騒いだり、こっちで「最近男とうまくいかない」なんてオカマの友だちがつぶれてると、相談に乗ってあげるし。そういうのが、おもしろかったのね。そう。だからその罰で目を取られたのよ(笑)。

■「ひとのために」

今だからわかるんだけど、「ひとのために」って意識がどこかにあるかどうかって、けっこう重要でね、たとえ遊んで暮らしていても、人生や社会に対するものの見方が違ってくると思うの。ところが当時のわたしは、「ひとのために」じゃなくて、ただただ「自分のために」だけ、生きていたから。「自分だけが気持ちよくて楽しくておいしければいい」っていう生活を続けていたんだもん、そりゃバチもあたるわよ。でも、そんな生活を四十四歳まで続けてしまったのね。

芸能界に本格的に入ったのが三十歳だったの。一九七五年のことだわ。だからそれから十四年間ね。まさに八〇年代バブルまっしぐらの時代に、ふわふわ、へらへら生きてたってわけ。そして八九年、まさにバブル絶頂期の年に、わたしは目を取ったのよ。

「ピーコ伝」よりピーコさんの言葉で、義眼となったエピソードをあえてご紹介しました。ピーコさんのように、自分さえ気持ちがよければよいのではなく、「ひとのために」の意識を大切に生きる大切さを学びましょう。

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