仏教者が考えるインターネットとの付き合い方。自分の心が疲れるか疲れないかを判断基準にしよう。

インターネットは、単に自分の心が疲れるか疲れないかを判断基準にしながら、距離をおいてつき合うのが一番です。仏教者が考えるインターネットとの付き合い方を紹介します。


■匿名掲示板は無慚の心を増幅させる

SNSには、常に現実社会での「自分」と地続きのアイデンティティーや個性が下地にあり、皆に受け入れてもらいたい、という「慢」の欲を基本に動いています。それに対して、匿名掲示板におけるアイデンティティーは「現実社会で演じている自分」から切り離されがちです。あるいはハンドルネームを用いて現実とはリンクしないキャラクターを演じています。

匿名性が強く、言いっぱなしの掲示板は、「怒り」がけん引的な役割を果たしがちです。「誰かを攻撃したい」という怒りの煩悩に直結しやすいのです。その心理を分析すると、「これは本来の自分の姿ではない」と思われる場所では、人は最も自分の本性をさらけ出す、という逆説的な理があります。

匿名や、ハンドルネームを用いてキャラクターを演じる時、これは本来の自分ではない、現実の自分とは切り離されている、自分はこのキャラクターを演じているだけであるという心理が働きます。

「これは本当の自分ではないから大丈夫」
「これはキャラだから本当の自分ではない」

と思うからこそ、人を攻撃する発言を繰り返したり、妄想を垂れ流したり、あまつさえ事件予告をしても「ま、良いじゃない。これは自分じゃないんだから」と思えてしまうのです。

他人にばれないからという理由も当然ありますが、それよりも、自分がそんなにひどい人間であると自分で思わなくてすむからです。これは自分を騙すことでストッパーが利かなくなる「無慚」の煩悩です。しかも、そうやって「これは自分じゃない」と思いつつ出している憎悪こそが普段は出せない本当の自分の姿なのです。

掲示板に攻撃的な言葉を書き込むと、「怒り」の刺激が感じられ、その「苦」を脳が「気持ち良い」と書き直します。しかし、そうやってうさを晴らしたつもりが、自分の怒りの煩悩が刺激されて思考のノイズが増え、苦が大きくなっているだけなのです。

「快楽」というものは実在するものではなく、基本的には「苦」が減った時に錯覚するもの、苦がなくなったことを脳が楽と錯覚するだけのことです。これが仏道の「一切皆苦」という真理です。一度、楽の味をしめると、「もっと、もっと」と、より大きな楽がほしくなって、その材料になる苦をさらに求めてしまうのです。

そして、自分の「怒り」に対して誰かが同意してくれると、ここでも「慢」の欲が出て自我が刺激され、中毒化してゆきます。あるいは反論されても、「くそーッ」という怒りの刺激によってさらに中毒化を深めるのです。

このようにして、「他人に見られたい」という欲求を追求することで時間も無駄になり、自我肥大を招いてしまいがちであるということ。それをわきまえて、アクセス数やコメント数をチェックするクセがついているなら、そのクセを止めようと試みることをお勧めします。

インターネットは、自分の心が疲れるか疲れないかを判断基準にしながら、距離をおいてつき合いましょう。

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