怒りがこみ上げたときに参考にしたい考え方

生きているとたくさんの怒りが湧いてきます。でも、怒ってばかりの人生は楽しくありません。そこで、怒りがこみ上げたときに参考にしたい考え方を紹介します。


■怒りがこみ上げたときに参考にしたい考え方

怒るのは簡単ですが、怒りっぱなしの人生はとても暗くて苦しいものです。楽しく気楽に幸せで生きていきたいという夢を持ちつつも、それが一向に叶わないのは「ポストが赤いのにも腹が立つ」といった調子で、人生が怒り漬けになっているからです。

私たちは、目でものを見て、耳で音を聞いて、からだに世の中のものが触れたりするときに、そういうふたつの判断をしているのです。その対象を容認すればそこに愛情が生まれてくるし、拒絶したらそこに怒りが生まれてきます。ですから、怒るか否かは個人の人格の問題です。明るく生きるか。あるいは苦しくて、悔しくて、文句だらけの人生になるか。それは、その人しだいであって、それ以外に原因はないのです。

「神の世界」は「幸福という状態」のことです。たしかに、「人が何をしようとも、どうなろうとも、私はその人を赦します。その人を拒絶せず、愛情を持ちます」とすべてを赦す気持になれたら、その人の心は愛情と幸福だけでいっぱいになってしまうのです。その状態を、キリスト教では「神」と呼び、他の宗教では別の言葉で表しています。その単語自体はあまり意味を持ちません。大切なのは「赦す」という行為なのです。また、人の感情を神格化しない仏教は、単純に「慈しみ、赦す」という言葉を使います。

怒るということは、自分で自分を燃やし始めたということです。いずれ細胞が破壊されて、グチャグチャになってしまいます。ためしに野菜でも花でもいいので、わずかな熱に当ててみてください。みずみずしい野菜を、日当たりの良い場所に置いて太陽の熱が当たるようにするだけでも結構です。一時間、二時間、三時間と置いてみるとどうなるでしょう? 乾いて生気をなくしているはずです。その変化は、火に当てればもっと激しくなりますね。我々のからだの中でも、それと同じことが起こっているのです。

完全なる悟りを開いて阿羅漢になったということは、「実体=エゴ」が頭の中にもまったくないということです。一瞬一瞬の無常に完全に気づいている「ヴィパッサナー」の智慧で生きているのですから、たとえぶたれても、サーリプッタ尊者にとっては、それはある瞬間、物質が物質に触れただけのことです。そこで痛みが生まれても、心は痛みを感じて、「あっ、痛み」というだけで終わりということになります。「私は痛い」とか「私はぶたれた」という発想は、無意識のところにもありません。だから、そういう態度でいられるのです。

怒る原因がないときは、誰でも落ち着いて、立派に恰好をつけていられる。でも、それは本物ではない。

「怒ったら我慢するんだ」というなら、死ぬまでずっと我慢しなくてはいけないことになります。

足に怪我をして、痛くて困っているとします。そこに誰かが来て「あなたは足を怪我して痛いんでしょう?私がその痛みを感じないようにしてあげましょうか」と提案します。「はい、お願いします」と答えると、その人は野球のバットを持ってきて、私の足を思い切り叩くのです。私の膝は折れてしまい、もう宇宙の星がぜんぶ見えてしまうほどの痛みです。でもお蔭さまで、もともとの足の怪我の痛みはもう感じません。たしかに、その人が言った通りにはなっているのです。「まだ、あの怪我は痛いですか?」と聞かれれば、その部分はもう痛くないのですから。でも膝の骨は折れ、別のひどい痛みが生まれています。ストレス発散の原理は、それと同じで、小さな痛みを大きな痛みでカムフラージュしているだけのことなのです。

人生というのは、何かをやって少しでも成功すると楽しいものです。ですから、我々は日々、「どうしたら成功するだろう?」と計画して生きればよいのです。計画の長さは、一〇分ぐらいで充分です。「一〇年あとで成功するぞ」と思って何か計画を立てると、それは苦しいのです。そうではなく、「この一〇分で、自分がやらなくてはいけないことをやり遂げるんだ」「この一〇分間でやることは、精一杯やって成功するんだ」というくらいがちょうどいいのです。そうすれば、成功するたびに喜びや幸福感を覚えられるのです。そうした小さな計画のユニットをつなげて、自分の人生にするのです。

怒りがこみ上げたときに参考にしてみてはいかがでしょうか?

「怒らないこと―役立つ初期仏教法話1(アルボムッレスマナサーラ)」の詳細を調べる

    
コメント