暴れん坊将軍が地元から連れてきた側近たち

テレビドラマ「暴れん坊将軍」でもおなじみの八代将軍・徳川吉宗は、徳川将軍家の直系ではなく紀伊徳川家の生まれでした。しかし、紀伊藩で数々の改革を成功させて名君と呼ばれ、鳴り物入りで将軍になった人物です。そんな彼は後世に「享保の改革」と呼ばれる一連の政治改革を断行し、幕府の財政状況を一時好転させることに成功するのですが、その一環として取り立てられ、出世した人々がいるのをご存知でしょうか。


●側近を連れてきた吉宗

吉宗は改革実行のための手駒として自分の子飼いの家臣団を江戸城に入れ、直臣(徳川家直属の家臣のこと。大名の家臣は陪臣と呼ばれ、一段低い扱いになる)としました。その数は二百人あまり。特徴としては、小姓・小納戸といった将軍の身辺を担当するものたちが元紀伊藩士に総入れ替えされたこと、紀伊藩の広敷伊賀者――すなわち忍者が直臣に取り立てられて御庭番という新設の職につけられ、諸国の動静や役人たちの素性、世間の噂など、情報収集に励んだこと、そして側用人を廃止して御側御用取次という職を作ったことなどがあげられます。

●御側御用取次とは?

御側御用取次の仕事内容は文字どおり、大老や老中、若年寄たちの詰所である御用部屋との連絡役を果たすことです。これはすでに存在して強大な権力を振るった側用人という役職とほとんど同じです。吉宗は側用人が幕政において強い発言力を持つという形を変えるため、側用人を廃止してこれを設置したのです。ただ、実際にはかつての側用人と同じように強い存在感を有し、たとえば場合によっては吉宗への伺いを立てずに、幕閣からの申し出すら拒否することがあったといいます。

●過剰な出世はさせない、のがポリシー

御側御用取次としては特に加納久通と有馬氏倫の二名が取り立てられ、大いに活躍したのだが、ふたりはあくまで一万石の大名にしかならなかったのです。

また、やはりテレビドラマなどで有名な大岡忠相(いわゆる「大岡越前」)は旗本から取り立てられ、町奉行出身としては唯一、大名になったものの、一万石止まりだったのです。側近に権勢を振るわせないように幕府のあり方を変えようとした、その吉宗の強い意志がここに表れている、といっていいでしょう。

榎本秋『殿様の左遷・栄転物語』ではこの吉宗をめぐるエピソードのほかにも、様々な「家」「大名」の浮き沈み、没落と復活の物語が紹介されています。興味が湧かれたらぜひご一読の程をしてみてはいかがでしょうか。

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