藩主直臣vs尼子旧臣の争い、津和野騒動

お家騒動はしばしば家臣団内部の勢力争いを背景として起きます。藩主が年若く、家臣団を押さえつける力がなければなおさらそうで、津和野騒動はその典型例です。


●無理やり家督継承へ

一六一七年(元和三)、因幡鹿野城主であった亀井政矩が、四万三千石の津和野藩に移封されましたが、わずか二年後、命を落としてしまいます。政矩には、大力という三歳の子がいました。この子が次期藩主の候補者となったのだが、ここで一つ問題がありました。当時の幕府の制度では、家督を継ぐことができるのは十五歳からと定められていたのです。しかし大力の母である光明院はなんと三歳の大力を「十五歳である」と偽って幕府に届け出て、しかもこれが許されたのです。このような無茶な届け出が許されたのは、光明院が徳川家康の孫娘であることが大きかったと思われます。

●派閥対立、勃発!

しかし今度は重臣同士の対立という新たな問題が巻き起こります。亀井家の重臣は、前藩主・政矩の頃より二つのグループに分かれていました。もともと山陰・山陽地方で勢力を誇っていた尼子氏に仕えていた多胡勘解由らのグループと、政矩とともに津和野藩に入ってきた執政・多胡真清らのグループです。

勘解由らは尼子氏の譜代大名として活躍していた者たちで、主家が滅んだ後もその再興を願って活動してきました。大力の祖父にあたる亀井茲矩もそれに協力していた人物で、彼が豊臣氏から信頼を受けていた時代には、尼子氏の再興の望みもありました。

しかし時代が移り変わり豊臣氏の力も潰えると、主家の再興は難しくなり、勘解由らも時代の流れに従い亀井家の家臣として仕えていくことが求められたのです。

●調停の試み

そのような状況にあって、新参者でありながら権力を手にしている真清と勘解由らの間に対立の構図が生まれるのは、ごく自然な流れといえました。そしてその対立の中で、勘解由たち尼子氏の旧臣は、結束を強めていったのです。亀井家に漂う不穏な空気を、幕府は早くから感じ取っていたようです。幕府は二つのグループを結束させることが必要だと感じ、一六二二年(元和八)に亀井家の重臣らに「協力して藩主を補佐する」という旨の起請文を提出させています。さらに人質という形で、十二人の重臣の子を一年ごとに交代する形で出府させています。

●厳罰によって決着へ

それでも亀井家重臣の抗争に歯止めをかけることはできませんでした。大力が十九歳になった一六三五年(寛永十二)には、勘解由ら六人が真清の専横や藩主軽視などを十一ヶ条に挙げた訴状を、亀井家一門宛てに提出したのです。しかし一門衆がこれについて真清らに真相を尋ねたところ、彼らは訴状の内容について上手に弁明することができました。そのため、今度は双方が直接対決をすることとなります。

審問は松平康重らの立ち会いのもと、数回にわたって開かれました。その結果、真清らの明快な返答に対し、勘解由たちは全く申し開きができなかったのです。これにより、勘解由たちの処罰が決定されました。訴状に連署した勘解由ら六人のうち、四人が切腹。勘解由は切腹は免れたものの追放処分となり、そのほか彼らに連座する形で八十人近くが追放されることとなりました。そこから先に幕府からの介入もなく、事件は落着します。

榎本秋『身につまされる江戸のお家騒動』ではこの津和野藩・津和野騒動のほかにも、様々なお家騒動の物語が紹介されている。興味が湧かれたらぜひご一読の程を。

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