江戸時代の庶民は果物を食べたのか? 日本における果物の歴史

現代では、みかん、りんご、ももなど果物をいつでも食べることができます。では、問題です。江戸時代の庶民は果物を食べていたのでしょうか?


果物は嗜好品だった

江戸の人びとは、いまのように果物を食べることはあまりなかったようです。江戸時代では、米の生産に力を入れていたこともあって、嗜好品としての果物はきびしく制限されており、いろいろ出まわるようになったのは江戸末期だったのです。

果物は新しい言葉

果物というのは新しい言葉で、江戸時代には「水菓子」と読んでいました。菓子はもともと「木の実」のこと、蜜柑などみずみずしい木の実、すなわち果物を「水菓子」と称していたのです。

種類が少ないなかで、江戸名物とされていたのは「成子瓜」です。当時、江戸城では美濃国真桑村(岐阜県本巣市)産の「真桑瓜」を「御用瓜」と称し、食べていました。成子(新宿区西新宿)の農家がその種子を手に入れて栽培。この真桑瓜を青梅街道や甲州街道で売ったところ、旅人に喜ばれました。やがて、江戸の人びとにも「成子瓜」といわれ、好まれたと言います。

また、葛西の新川付近(江戸川区)に「新川梨」があったが、江戸市中で売られたのは江戸末期のことです。

そのほか、農家の庭先になる柿が出まわるくらいだったのです。果物がポピュラーになったのもつい最近だったのですね!

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