押込めだけでは終わらなかった越丸騒動

藩主が愚かであったり、あるいは政治を牛耳ろうとする重臣にとって藩主が邪魔であった時、「押込め」が行われることがあります。藩主を幽閉してしまうのです。しかし、そこからさらに事態が動くことも……。


●押さえが外れ、暴走へ

越前丸岡藩の藩政が乱れ始めたのは、四代藩主・重益の頃からです。彼は生まれつきの暗愚だったといい、昼夜問わず酒と女に溺れ、政治に関心がなかったために、藩政は家老に任せきりだったとされています。それでも、本多十郎左衛門という家老が生きている間は、彼が謹厳実直な人物であったために、藩政はうまく進みました。ところが十郎左衛門の死後、本多織部らが台頭してくると、彼らは藩政を任されているのを良いことに不正や専横を極めたため、藩政は乱れ、家臣や領民は不満を募らせていきました。

●押込めで終わった……?

これを憂えた家臣の太田又八は、重益の舅にあたる水戸頼元や老中の大久保忠朝らに相談しました。その結果、織部や寺田たちの知行を取り上げ、追放することが決定。一六八〇年(延宝八)に織部らは、悪政の責任を追及され、藩から追い出されました。この織部ら追放の功績により、又八は本多姓を許されたうえ、千石の知行を賜りました。彼らのもとで新しい藩政が行われ、藩は次第に平穏を取り戻していくのです。

ところが、藩主である重益の様子は相変わらずで、又八らは頭を悩ませます。そこで考えられた策が、重益を病気と称して押込めにし、後継者をよそから連れてくるもので、遠縁にあたる本多作右衛門の子が貰われ、次期藩主とされました。

●藩主方の巻き返し運動

一方で、藩から追放された織部が巻き返しをはかっていました。そこで織部は重益に取り入って、「自分が藩に戻れば重益の押込めも解いてやれる」と申し入れます。さらに寺田と話しあった末、老中であり本多家の親類でもある大久保忠朝に嘆願し、重益の藩政復帰を願い出ました。

この織部の働きにより、重益は一六九三年(元禄六)に病気が全快したとして藩政に復帰。織部一派もそれに合わせて戻ってきた。しかし反対に、又八らは織部一派の報復として、牢に入れられてしまったのです。又八は憤りから食事を断ち、そのまま命を落としました。その後も投獄された者たちは、相次いで餓死したといいます。

●ついに幕府介入へ

ようやく望みがかなった織部だったが、騒動はここで終わりませんでした。藩政に復帰した織部が又八の関係者らを次々と処罰していったために、身の危険を感じて藩を脱出する者が相次いだのです。この事態に気づいた幕府が、ついに裁定に乗り出すことになります。織部一派は評定所に呼び出され、老中や諸役人らが立ち会う中、取り調べが行われました。

その悪事は明白であり、幕府は織部に領地没収のうえ、切腹という処罰を下しました。また藩主の重益も評定所に呼び出されました。藩政を乱れさせたこと、又八ら忠臣を死に至らしめたこと、多くの脱藩者が出たことなどを罪に問われ、改易となります。そのほか、織部に加担した者たちにもそれぞれ処罰が下され、ようやく越丸騒動はおさまりました。その後、丸岡藩には新しい藩主として、越後糸魚川から有馬清純が入封しています。

榎本秋『身につまされる江戸のお家騒動』ではこの丸岡藩・越丸騒動のほかにも、様々なお家騒動の物語が紹介されています。興味が湧かれたらぜひご一読の程をしてみてはいかがでしょうか。

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