平家滅びゆく

平清盛率いる平家。朝廷を思うがまま動かし「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われるほどでした。しかし、平家をこころよく思わない者がどんどんと生まれていました。今回は、平家がどのように滅びの道を歩んでいったのかを紹介します。


■平家への反感

鹿ヶ谷事件に続く第二の平家打倒運動の旗手となったのは、「以仁王」。後白河法皇の第三皇子で天皇にふさわしい資質を備えていたが、故建春門院滋子に疎まれ、皇位継承の夢を果たせずにいました。30歳を迎える頃には、法皇が幽閉されたり、甥にあたる安徳天皇の即位で自らの皇位継承が絶望的になるなど、いくつもの不幸に見舞われていたのです。そんな以仁王の前に、源氏の武将源頼政が現れます。頼政は保元・平治の乱で清盛側について戦い、源氏としてはただひとり平氏政権下で生き延びた人物で、70歳を超えてからも清盛の信頼を得ていました。頼政は以仁王に謀反を促し、今こそ平家の横暴をあばき出し、平家を打倒すべきだといったのです。さらに、その気になれば挙兵に応じる源氏の武将が諸国に何人もいると。これが平家打倒の狼煙となりました。平治の乱以降、身を潜めていた全国の源氏一族は、この挙兵をきっかけに平家打倒に立ち上がりました。以後、日本は源平の争乱となったのです。

平家打倒を決意した以仁王は、すぐに熊野にいた源行家(頼朝の叙父)を召し寄せ、諸国の源氏に挙兵を呼びかける令旨を届けさせました。平治の乱で伊豆に流されていた源頼朝や、木曾義仲らの手にも令旨が渡りました。法皇の子である以仁王の命令があれば、平家討伐は謀反ではなくなります。平家方が賊軍で、以仁王方が官軍になるのです。こうして皇族自らが立ち上がった第二の平家打倒運動加速していきました。

■宇治の合戦

1180年5月16日、謀反の噂が京の街に広まると、源頼政はその日の夜のうちに三百余騎を率いて、以仁王が身を寄せる園城寺へ駆けつけました。園城寺に結集した反平家勢力はまず延暦寺と奈良の興福寺、東大寺に書状を送って援軍を頼むことにしました。平家を打倒するには、寺院の僧兵の協力が不可欠であった。延暦寺は園城寺と同じ天台宗の寺院であったが、書状のなかに両寺を対等に扱う表現があることが気に入らず、協力を拒みました。延暦寺は自分たちが本寺、園城寺は末寺という寺院の格を考慮していない点に腹を立てたのです。また、平清盛から大量の贈り物を受けていたことも、以仁王方への協力を難しくしていました。しかし興福寺と東大寺は、平清盛打倒は望むところであるとの返事をします。両寺の宗派は天台宗ではないにも関わらず援軍を送ってくれるとなったのです。しかし、平家に味方する阿闍梨真海によって夜討ちは実行できませんでした。その後宇治の合戦が始まり、以仁王は討ち取られてしまったのです。

■福原遷都

以仁王の謀反は、衝撃的な事件でした。1180年6月2日、京にさらなる激震が走ります。平清盛が都を京都から福原(兵庫県神戸市) ヘ遷すと宣言したのです。平清盛は3歳の安徳天皇を福原へ行幸させ、後白河法皇、高倉上皇、徳子をはじめ多くの公卿を同行させました。法皇については、以仁王の挙兵に関係したとして、ふたたび福原の御所に幽閉しました。福原は清盛の本拠地で、貿易のための港の開発が進められていました。それまでにも遷都の噂がなかったわけではありませんが、あまりに急な話であったため、人々は準備もないままに出発せざるを得ませんでした。福原を新都として選定した背景には、貿易を活性化しようとする平清盛の意図があったのです。また、京都や奈良の寺院勢力と距離を置きたいという願望も遷都の理由でした。福原の地は、京都や奈良から山を隔てた瀬戸内海沿岸にあり、寺院勢力が兵を挙げたとしても対処しやすいと考えたのです。ただし、福原は平地が乏しく、都城の造営にふさわしい土地の選定もままなりませんでした。また、貴族たちにとっては引っ越しの費用が高く、引っ越しがすんでからも、いっこうに落ち着きません。そのいっぽう、慣れ親しんだ旧都では家々が取り壊され、荒廃が進んでいきます。

こうして、平氏政権に対する人々の不満は、どんどん高まっていったのです。

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