コネに救われ、コネに翻弄された久留島長親

豊後国森藩の久留島家はコネクションによって救われた家です。もっとも、そのコネクションに翻弄されることにもなったのですが……。


●久留島家の経歴

久留島家は豊臣政権のころには「来島」といったが、さらに古くは「村上」を名乗っていました。元は清和源氏なのですが、やがて伊予に移り、瀬戸内海の島々で三つの島――能島・因島・来島にそれぞれ住んで、水軍(海賊)として大きな勢力を誇ることになりました。中国地方の覇者へ一代で成り上がった毛利元就が彼らの力を借りたのはつとに有名です。

そのうち、来島を根拠とする一族は四国の戦国大名である河野家につきましたが、村上通総の代に離反して豊臣秀吉につき、一万四千石の大名となりました。この秀吉が通総のことを「来島」殿と呼んだため、以後この名を使うようになったのだといいます。

●関ヶ原の戦いで没落、しかし?

関ヶ原の戦いの際、時の当主である来島長親(康親)は西軍につきました。以前から関係が深く、また同じ村上一族を傘下に収めている毛利家との縁がその理由と考えられます。結果として所領を失い、家臣団も散り散りになってわずか数名が長親に付き従うだけとなりました。

そこからの苦しい浪人生活において、長親を助けたのはコネクションだったのです。彼の妻は福島正則の姪にあたり、この関係がずいぶん彼を救うことになったようです。まず最初に口利きを頼もうと接触した徳川の重臣・井伊直政に家臣が面会できたのも、正則の助けを受けた部分が大きかったと考えられます。

●縁をたどって復活!

残念ながら直政の口利きは得られなかったのですが、以前から付き合ってきた商人の縁を通じて(豊臣水軍の将として、交通の便宜をはかったことなどがあったのでしょうか)、やはり徳川の重臣である本多正信に接触することができました。これに加えて豊臣家の重臣である片桐且元の協力も得られ、長親は豊後国森藩で大名としての再興にこぎつけたのです。一六〇一年(慶長六)のことでした。

榎本秋『殿様の左遷・栄転物語』ではこの久留島家のエピソードのほかにも、様々な「家」「大名」の浮き沈み、没落と復活の物語が紹介されています。興味が湧かれたらぜひご一読してみてはいかがでしょうか。

「殿様の左遷・栄転物語(榎本 秋)」の詳細を調べる

    
コメント