柳川一件で失脚した重臣の読み違い

江戸時代初期、「柳川一件」と呼ばれる事件が起きました。これは対馬藩宗家の家老で、対馬という島の「外」に所領を持っていた柳川家の独立画策が、外交問題にさえ発展するような大問題となったものであり、非常に興味深いものです。


●外交で活躍した柳川家

柳川家がどこを発祥とするかはハッキリしません。対馬の領主である宗家に仕えるようになり、次第に柳川調信という人物がその家中で存在感を増していったようです。

彼は秀吉の朝鮮侵攻に先駆けての李氏朝鮮との交渉、関ヶ原の戦いにおいて西軍についた宗家の立場を家康に対して釈明したこと、また朝鮮との修好など、大いに活躍しています。結果、宗家が肥前に所有していた所領のうち一千石が幕府の指示によって実質的に柳川家に与えられることになりました。これが事件の遠因になります。

●若きエリートと重臣の対立

調信の二代後、柳川調興の代になって、事件は起きます。きっかけは、宗家と柳川家の関係が悪化していったことであるようです。時の宗家当主である義成は当主になるまで対馬に行かずに駿府や江戸で暮らし、家康・秀忠の側近く仕えた「都会生まれのエリート」的な人物であり、幕府とのつながりを生かして独自の政策を推し進めました。こうなると、対馬藩において大きな勢力を誇っていた柳川家との確執が生まれるのは当たり前です。

両者の対立は例の田代領の帰属を焦点にしつつ、激化していきます。どうもこの時点で、調興としては対馬藩から独立し、旗本として幕府の直臣になることを狙っていたらしいのです。もちろん、義成としてはそんなことを認めるわけにはいきません。幾度か争った末、ついに一六三一年(寛永八)、両者は幕府に訴えて出るという強硬策に出ました。

●外交問題に発展!

この時点では幕府にとって問題はそれほど深刻ではなかったが、二年後に調興が持ち出した主張が大問題になりました。なんと、「宗家は幕府から朝鮮への書類を偽造し、偽りの使者を送っている」と暴露したのです。この暴露については当時の日本と朝鮮の微妙な外交関係が背景にあり、また柳川家自体が深くかかわっていたことから、捨て身の作戦的なところが多分にあったのでしょう。これによって、事態は藩内部の争いから幕府全体の、いや朝鮮もかかわる国際的な問題になってしまいました。

●独立の夢、誤算に破れる

幕府としてはなんとしてもこの一件を解決しなければいけません。時の将軍・家光は江戸城内に柳川・宗の両者を召喚して対決させ、その結果を受けて裁定を下しました――国書偽造の一件は柳川家の暴走によるものであり、宗家に罪はない、としたのです。調興は弘前藩預かりとなってしまい、独立の夢は破れたのです。

この判決には、あまりにも問題が大きくなりすぎたため、「大名の一部下の暴走」とすることでなるべく幕府との関係性を減らそうという意図があったと思われます。その意味で、暴露戦術に出た柳川家は「外交文書偽造」という問題に対する危機感が足りなかった、といえるかもしれません。大きな博打に出るならその前に結果をきちんと予測してからにしたいものです。

榎本秋『殿様の左遷・栄転物語』ではこの対馬藩宗家・柳川家のエピソードのほかにも、様々な「家」「大名」の浮き沈み、没落と復活の物語が紹介されています。興味が湧かれたらぜひご一読の程をしてみてはいかがでしょうか。

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