したたかな男の養子 藤堂高吉

伊勢国津藩の藩祖である藤堂高虎は、近江の有力大名である浅井家に仕えたのを始めとして主君を次々と変え、ついに大大名にまでなった男です。しかし、彼の生き様の影には、割りを食った形になった養子の悲劇があったのをご存知でしょうか。


●権力者に取り入るための養子

一五八八年(天正十六)、高虎は丹羽長秀の三男・仙丸=後の藤堂高吉を迎え入れました。彼はもともとこの時期の高虎の主君である羽柴秀長の養子で、秀長は優秀な高吉をとても気に入っていました。しかし高虎が高吉を養子にくれるよう秀吉に頼み込んだために、手放さなければならなくなったのです。

高虎が高吉を所望した理由としては、彼を通じて秀吉に取り入ろうとしたためと考えられています。そもそも高吉は羽柴秀吉が丹羽家を取り込む戦略の一環として弟の秀長のところに養子として貰われたのです。しかし、この時にはすでに丹羽家は秀吉の支配下にあったので、彼の価値は下がっていて、すでに秀長の後継者の座からは追われていました。そこに高虎からの声がかかったので、彼の才覚を気に入っていた秀長以外にとっては誰もが満足する結果のはずでした――少なくとも、この時点では。

●政権交代のせいで廃嫡!?

しかし一六〇一年(慶長六)、高虎に実子・大助(後の高次)が誕生。二人の関係は次第に険悪になっていったようです。やがて高虎は七十五歳でこの世を去るが、その三カ月前、彼は高次に家督を譲り渡していました。高吉は高次が生まれて以来、藤堂家から冷遇される傾向にあり、ここに来てそれが決定的なものとなったといえます。高吉は高次の家臣という立場にまで落とされたのでした。

この後退の背景にあったのは「高吉は養子で高次は実子」という単純な話だけではなかったようです。かつては天下の支配者だった豊臣家もこの頃にはその地位を降り、すでに徳川家と江戸幕府が天下を取っていました。豊臣家と縁が深くて幕府に目をつけられかねない高吉は跡取りとしてふさわしくない、と判断されたらしいのです。実際、この時期、他の大名家でも同じように「それまでの後継者候補は豊臣と縁があってふさわしくないので、徳川家と縁のある候補を選ぼう」という動きがあったとされます。

●不遇な男・高吉

その後、高吉は伊賀国の名張に入って名張藤堂家の祖となったが、江戸時代を通じて本家との関係は良くなかったのです。そもそも、名張藤堂家の二万石はもともと半分は秀吉から、半分は家康から与えられた高吉自身の所領だったのに(その意味でいうなら彼は本来大名だったはずなのに)、それがいつの間にか津藩の一部に組み込まれていて、かつ五千石は高吉の死後に兄弟たちへ分け与えられてしまった、といいます。したたかな大名の生き残り策は、翻弄される側にとってはしばしば迷惑なものなのです。

榎本秋『殿様の左遷・栄転物語』ではこの名張藤堂家のエピソードのほかにも、様々な「家」「大名」の浮き沈み、没落と復活の物語が紹介されています。興味が湧かれたらぜひご一読の程をしてみてはいかがでしょうか。

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