浅井長政は本当は織田信長に降伏したかった?

織田信長の妹である市を妻としながらも、朝倉との同盟関係を重視した義理に厚い戦国武将として有名な浅井長政。しかし、浅井長政は本当は織田信長に降伏したかったのです。


朝倉との同盟を優先

1570年、織田信長が浅井長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、朝倉方の城を攻め始めました。浅井長政は朝倉家との同盟関係を重視し、織田徳川連合軍を背後から襲いました。これが有名な金ヶ崎の退き口です。この戦より浅井家は織田家と敵対関係となりました。

なぜ織田家のお市は離縁されなかったのか?

お市が離縁もされず、滅亡の年に江が誕生するなど、仲良く過ごしていたのはなぜでしょうか。これもは、浅井長政がどこかで織田信長と関係回復を模索していたのだとみることができます。仲直りのチャンスは、武田信玄が死に、足利義昭が京都を追われ、浅井救援をあきらめて越前に逃げた朝倉氏が織田軍団に背後を襲われて滅んだ1573年9月でした。

降伏するつもりだった浅井長政

このとき、織田軍団の木下藤吉郎が水汲み場に通じる間道から上がって、搦め手(城の裏門)の小丸にあった長政の父・久政を、本丸の長政との連絡を絶ったうえで自害に追い込みました。これを受けて信長から長政に降伏勧告が出されて長政も降伏を受け入れそうだったのです。朝倉は滅び、お市の色香に血迷ったのかとうるさい父親も死んだのだから、降伏を止める邪魔はなかったのです。ここでいったん、戦闘は終わりました。

悲劇の手違い

ところが、ここで手違いが起きるのです。重臣の赤尾清綱が投降したのに生け捕りにされ、辱めを受けたのです。こうなると、主君である浅井長政もどういう扱いを受けるかわかりません。そして、長政は、腹を決めて自害したのです。

お市たちがどのように城を出たのかは不明ですが、城が焼けた痕跡はなく、「信長の妹と姪だから、悪くすることはないだろう」と長政から諭され、燃えさかる炎のなか城をあとにしたといったことはありえません。このことからも、長政は家族と一緒に降服し投降するつもりだったのではないかと推測ができます。

父親が自害させられているのに投降することは、当時としては珍しくはありませんでした。たとえば、小田原の北条氏が滅びたときも、徳川家康の婿である五代目北条氏直は、秀吉の小田原攻略の際、一人で城を出て投降し、父の四代目氏政を切腹させています。

これらの理由から本当は浅井長政は織田信長に降服したかったのではないかと推測することができます。

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