意外に多かった戦国の城

戦国時代にあったお城の数を知っていますか? お城といえば1つの国に1つしかないイメージがあります。しかし、戦国時代にあったお城は意外と多いんです。


■戦国時代は城の時代だった

文化庁の指導で、各都道府県の教育委員会が中心になり、それぞれの都道府県ごとに中世城館跡の悉皆調査が行われました。調査を終えた段階で700を超す中世城館跡がリストアップされました。なんと、滋賀県では1,300を超え、愛媛県でも1,200を超えており、全都道府県の合計は約50,000もお城が存在しました。しかも、どの都道府県の報告書でも、戦国の城が圧倒的に多いのです。「戦国時代は城の時代だった」のです。

城の数が1,300を超える滋賀県の場合、特に多いのが甲賀郡のところで、甲賀郡だけでも300を数えています。2キロメートル四方の範囲に城館が5つもあるケースもあります。城館は方半町から方一町程度の小規模なものが多く、土豪とよばれる地侍たちがそれぞれの拠点として築いていたもので、狭い範囲にいくつもの城が築かれている景観は「甲賀郡中惣」といわれる土豪連合のあり方として注目されています。また、地形に制約されているという側面もありますが、城館が均一ではなく、それぞれが異なった造りになっており、城館主の個性も出ています。小さいながらもしっかりと造っているのです。

■たくさんのお城は「村の城」だから?

戦国期の小規模城館は、これまでは国人や土豪といった在地領主が築いたものとするのが一般的でしたが、「村の城」というとらえ方が提起されています。提唱者である藤木久志氏は『戦国の村を行く』の中で、はっきり城が権力のものになるのは17世紀以降で、戦国期には城をもっていたのは領主に限らず、村にも、いざという時に村人が籠る城があったとし、小規模な城は「村の城」だった可能性があると言っています。築城主体が領主権力でなく、村人たちだったという指摘は、それまでの一般的な城についての概念をくつがえす大きな問題提起ですが、北陸の一向一揆地帯にみられる「百姓持ちの城」といわれるものの中に、「名字ノ百姓」といわれる土豪クラスもまじっていて、その線引きがむずかしくもあります。どこまでが「村の城」で、どこからが「在地領主の城」かを見極めていくことが今後求められます。

■戦国時代にお城が多いのは兵農未分離だったから

戦国時代に城が多かったのは、戦国大名の家臣団が兵農未分離だったからと考えられています。織田信長が城を清須城から小牧山城へ移すころより徐々に兵農分離が進み、豊臣秀吉段階にほぼそれが完成しますが、戦国大名一般は兵農未分離が基本でした。

戦国大名の家臣団をみると、国人とか国衆といわれる上層家臣と、土豪とか地侍とよばれる下層家臣の二つに大きく分けることができ、国人クラスは専業武士で農業経営にはかかわりません。それに対し、土豪クラスは「名字ノ百姓」ともいわれるように、苗字をもった名姓です。有姓農民といういい方もし、有力名主などともいわれ、平時は農業経営に従事し、いざ合戦というときに、鎧を着、馬にまたがり、槍をもって出陣していく半農半士の人びと、つまり、兵農未分離の状態だったのです。

戦国の城の数や、農民が所有していたかもしれない戦国の城。城好きにはたまらない1冊です。

戦国の城(小和田哲男)

    
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