関ヶ原の戦い、家康の思惑とif(もし)の伊達戦記

関ヶ原の戦い以前、伊達政宗は徳川家康との間に「味方したら加増する」と密約を交わしました。しかし、実際の戦いで東軍についたにもかかわらず、南部氏の領域で工作を行ったことがばれたことなどが理由で大幅な加増を受けることはありませんでした。しかし、このことについては「はたして家康には本当に加増をする気があったのか」という疑念もあります。東軍に味方した大名の中でも政宗の石高は多いほうです。これに加増などしたら、いくらそれが東北のことであっても徳川氏にとって危険なだけではないでしょうか。


■関ヶ原前夜、政宗の位置づけ

加賀の前田氏も大領ではありますが、関ヶ原開戦前の家康の脅しにたやすく屈するような家風であり、恐れるに足らない、とも言えます。一方、政宗はたびたび豊臣氏への謀反を疑われたような、反骨の武将です。戦国時代を生き抜いた前田利家がすでに亡くなって代替わりしていたのに対し、政宗は東北の動乱を生き抜いた油断のならない男だ、というのも加味するべき情報でしょう。

■家康は伊達をどう見たか

家康は江戸から遠く離れたところに移しつつ領土を増やすという手段も多用しましたが、奥州自体がすでに奥地であり、かつ葛西・大崎一揆の際の懲罰でそもそもの本領からも離れています。とすれば、奥州とはまったくの正反対――薩摩国に島津氏に代えて押し込むくらいしかないですが、そもそも島津氏は徳川にとって警戒するべき難敵であり、簡単に移動できる勢力ではありません(実際に島津氏は関ヶ原で西軍についた大大名で唯一本領安堵したそうです)。こうなれば、家康の本音としては「敵だろうが味方だろうが領土を減らしてやりたい」だったのではないでしょうか。

■政宗の決断

そして、それを敏感に感じ取った政宗は「素直に加増されるはずがない」と実力で領土を増やすべく動いたのではないでしょうか。そもそも、当時の大名たちの共通認識として、「関ヶ原の戦い一回で決着がつくはずがない」という思いがあったと私は考えます。とすると、政宗も「中央での戦いが長引いている間に東北の覇権を手に入れ、実力でそれを認めさせる!」くらいのことを考えていても不思議ではありません。事実、徳川家康自身がかつて、織田信長が本能寺の露と消え、秀吉と柴田勝家が争っている間に甲斐と信濃を手に入れているのですから。

■関ヶ原の戦い、そのif(もし)

この視点で考えれば、更なる戦略として『上杉景勝と和平し、家康不在の関東を襲う』というプランも十分にありえました。この頃、上杉氏は旧領の越後に伝を頼って勢力を伸ばそうとしていました。中央が膠着状態に陥り、上杉が越後を回復し、米沢旧領を政宗に戻すという判断をしたら奥州は一挙に西軍寄りになります。そして対奥州の最前線の司令官は家康の次男・結城秀康を筆頭とした軍勢ですが、徳川本隊というべき歴戦の武将たちの多くは中央へ向かって留守にしていました。戦国時代の動乱を勝ち抜いてきた伊達・上杉連合軍ならば鎧袖一触――という未来図も十分ありそうだとは思えないでしょうか。

榎本秋『秀吉、家康を手玉にとった男 「東北の独眼竜」伊達政宗』ではこの関ヶ原のエピソードのほかにも、伊達政宗を様々な側面から描いています。興味が湧かれたらぜひご一読の程を。

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