適材適所の人員配置

伊達政宗は頼りになる家臣を多く従えています。その中でも特にユニークな人材を中心に紹介しましょう。これはまた、政宗がいかに適材適所の人員配置に心を砕いたか、の証拠でもあります。


●名参謀・景綱

政宗の重臣・片倉景綱は政宗の参謀として多大な活躍をしました。武士としての器量に加え、機転がきき、広く物事を見通せる人物だったようです。それが顕著に表れるのは人取橋の戦いです。政宗が連合軍に囲まれた時に、景綱は大声で政宗に向かって、「ひるむな小十郎(景綱の通称)」と叫んだといいます。それを聞いた連合軍の標的は、大将・政宗から近くにいた景綱に変わります。連合軍は景綱を政宗と勘違いしたのです。これによって政宗は最大の危機といわれている戦いを乗り切りました。

政宗は秀吉によって幾度も死を覚悟させられていますが、その中の一つである小田原攻め刻の際も景綱が政宗の危機を救っています。小田原に参陣するかしないか、家臣・一族の間で揉めていた時に、景綱は的確な意見を述べて政宗の決心を促しました。さらに小田原攻めの後の申し開きを促したのも景綱だったとされています。

●政宗が見出した才能①財政を支えた元商人

鈴木元信という人物がいます。彼の出身は商人であるといわれており(諸説あり)、武士を志して京都へ赴きました。そこで茶道などの教養を身につけ、その後政宗に仕えています。政宗は彼を財務担当に任命しました。

元信は政宗の期待に大いに応え、返済期限があいまいな借財に対して返済期限を設けるなど、商人としての力量を見せて仙台藩の財政を支えています。そんな元信は後々、家老にまで上り詰めました。茂庭綱元が商人出身の彼を家老に推薦するのをためらっている時に、政宗自らが元信を推挙したという逸話も残されています。

●政宗が見出した才能②新田開発の功労者

仙台藩は新田開発をして米を大量生産することにより多額の富を得ました。その事業に一役も二役も買った人物が川村重吉です。彼は長州で生まれ、はじめ長州藩主の毛利輝元に仕えました。その後政宗の元に渡り、一六二三(元和九)年から一六二六(寛永三)年の四年間をかけ、藩内にある東北で最大の河川・北上川と迫川・江合川を合流させ、さらに北上川本流を南に下げる工事をし、河水を石巻湾に流し込む工事に成功します。

この工事のおかげで新たな田園地帯ができ、河口港も開けました。水路の整備もできたので、このルートを使って米が江戸に運ばれ、多大な収益を手にすることになります。重吉はまさに仙台藩のヒーローといってもいいでしょう。

●政宗の人事哲学

このように、政宗は昔からの家臣だろうが新しく雇った人物だろうが関係なく、適材適所に家臣を配置して効率的な藩の運営を行っていました。これは政宗が伊達氏という東北の名門に生まれ、本来なら歴史や伝統に誇りを持つであろう生まれであることを思えば、画期的なことといっていいでしょう。

榎本秋『秀吉、家康を手玉にとった男 「東北の独眼竜」伊達政宗』ではこの人材のエピソードのほかにも、伊達政宗を様々な側面から描いています。興味が湧かれたらぜひご一読の程をしてみてはいかがでしょうか。

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