織田信長の城革命

信長は、鉄砲の三段撃ちや鉄張り軍艦の建造など、戦術・戦法にかかわるところで独創性を発揮したことが知られていますが、築城の面においても、戦国の城を近世の城へ作りかえていく起爆剤となった独創性を見せています。今回は織田信長の城の独創性を紹介します。


■城を次々と移転していた信長

城にかかわるところでの信長の独創性としてまず指摘されるのは、信長が居城を次つぎに移転させている点です。那古野城で成長し、父信秀の死後、家督をついだ信長は、しばらく那古野城を本拠にしていました。清須城に移ったのは1555年4月20日のことです。

尾張国の守護は斯波氏で、その守護代が二人いて、一人は、岩倉城を本拠とする織田伊勢守系の織田氏で、岩倉織田氏とよんでいます。もう一人が清須城を本拠とする織田大和守系の織田氏で、これが清須織田氏です。信長が台頭しはじめたころの清須織田氏は織田信友です。信長は叔父の織田信光とはかって、この信友を討ち、居城を那古野から清須へ移しているのです。清須に守護斯波氏がいたということもあり、尾張の覇府、すなわち、政治・経済の中心にもなっていたからです。

清須は尾張平野のほぼ中央に存在し、木曽川水系の五条川の中流域にひらけたところで、城は標高わずか6メートルほどの自然堤防上に築かれていました。平城で、守護斯波氏の守護館をベースにして拡張し、いくつかの曲輪を設けています。しかし、基本は戦国の平城と何ら変わるところはありませんでした。変わっていたのは城下町で、信長は、城下に家臣団を集住させはじめていたのです。

■家臣の城下住まいは兵農分離の始まり

当時、城下町には戦国大名の重臣クラスだけが集住し、一般の武士は在郷といって、それぞれの村々に住んでいるのがあたりまえでした。信長は、そうした在郷の土豪たちの次男、三男を親衛隊として登用し、城下住まいをさせていたのです。兵農分離のはしりともいうべき状況がこの清須城においてみられるのです。

■次の攻撃目標に近いところに城を移す

信長の清須在城は1555年から1563年の途中までであす。その年、信長は新しく小牧山に城を築き、移っていきました。信長の先進性として、居城を思いきって移し、次の攻撃目標に近いところを本拠にしています。1567年8月、稲葉山城の斎藤龍興を逐った信長は、すかさず奪ったばかりの稲葉山城に移り、そこを岐阜城と名づけ、居城としています。岐阜入城のころから「天下布武」の四文字を刻んだ印判を用いはじめ、岐阜城を本拠にして、信長はいよいよ天下統一の戦いに乗りだしていくことになるのです。そして、岐阜城からさらに安土城へと居城移転を行うことになり、「次の攻撃目標に近いところに城を移す」という信長の独創性がみられるのです。

城に関しても信長は革命をもたらし、戦国の時代を新しい世界に変えていったのです。

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