再興運動が展開された徳山藩毛利家

周防国徳山藩の毛利家は有名な長州藩(長門国萩藩)毛利家の支流にあたり、本藩との確執が原因になって改易に追い込まれてしまった大名家です。


●兄弟から始まったのに、仲の悪い本家と分家

毛利輝元の次男として生まれた毛利就隆が、兄で本家の家督を継いだ秀就から分け与えられた領地のうち都濃郡野上村を居住地と定め、一六五〇年(慶安三)にここを徳山と改名したのが徳山藩の始まりです。

しかし、どうもこの支藩は当初から本藩との仲が悪かったようです。きっかけは一六四九年(慶安二)、幕府から長州藩に割り当てられた江戸城の普請について、秀就が就隆に手伝ってくれ、と頼んだことだとされます。これを「財政が厳しい」と就隆が断ったので、以後両者の関係が悪化し、兄弟の縁を切るにいたった、というわけです。

●思いもよらない改易

事件が起きたのは就隆の四男・元次が徳山藩主であった頃、一七一五年(正徳五)のことです。徳山藩と長州藩の境目となる万役山で、長州藩の父子三人が万役山の松の木を伐採したところ、徳山藩の足軽がそれをとがめました。父子らは、この松の木は自分たちが以前植えたものだと反論しましたが、足軽は「徳山領の木を盗伐した」として父親を斬殺し、子のひとりにも怪我を負わせたのです。

両毛利家の間には以前から確執があったものの、訴訟に至るほどではありませんでした。ところがこの事件をきっかけとして、本格的に決裂してしまったのです。長州藩は徳山藩の謝罪を求めたが、徳山藩側は「徳山藩内の木を盗伐したことに対する当然の処置」としてそれを受け入れませんでした。江戸時代、こういう領地問題はしばしば起きてやっかいなことになったのですが、このケースでもそうでした。

長州藩主の毛利吉元が元次を説得し問題を解決に導こうとしましたが、元次がそれに同意しなかったため幕府に訴えました。それでも、この時の要望は「元次を引退させてほしい」という程度で、本藩としてはあまり大きな問題にしたくなかったのでしょう。

ところが、幕府は「本家への礼を失している」「藩政の状況もよくない」として元次に改易をいい渡します。徳山藩の所領は萩藩に返還され、元次は出羽国新庄藩に身柄を預けられることになりました。また、吉元としてもさすがにここまでのことになるとは思わなかったのでしょう、退去させられそうになった徳山藩士たちを温情を発揮して庇護しました。

●百姓の力を借りて再興へ!

やがて徳山藩士たちを中心とした再興運動が起こります。活動の中心となったのは奈古屋里人という家老です。この人は、先の事件が起きた際に元次を諫め、追放されたという背景があったのですが、そのような遺恨よりもまず家の存続をこそ第一義に動いた、ということなのでしょう。

当初は幕府に無視されていましたが、里人は「周防徳山領百姓中」と署名した三通の嘆願書を江戸に送り、「百姓たちが素朴に徳山藩を慕っている」と演出して再興を訴えました。実際、この前に百姓たちが幕府に訴えるため江戸へ出ようとしていたから、まんざらうそではありません。タイミングのいいことに、将軍が八代目の徳川吉宗に交代していたこともあって、幕府の態度は軟化していました。結果、一七一九年(享保四)元次から次男の元堯に家督を相続することが許され、徳山藩は復活するのです。

榎本秋『殿様の左遷・栄転物語』ではこの徳山藩毛利家のエピソードのほかにも、様々な「家」「大名」の浮き沈み、没落と復活の物語が紹介されています。興味が湧かれたらぜひご一読の程を。

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