桶狭間の戦いの真実

1560年6月12日、今川義元と織田信長の戦争で有名な桶狭間の戦いが起こりました。桶狭間の戦いには、このような誤解があります。「足利一族で駿河、遠州、三河の三国を支配した今川義元は、三万五千の大軍を率いて上洛の途につきました。それを向こう見ずに迎え撃ったのが、父が遺した小国尾張の半分さえも抑えきれていない若き織田信長で、兵力はわずか五千人。一気に踏みつぶされて今川義元の上洛と天下取りが成功するかと見えたが、桶狭間における奇襲で信長は義元を討つことに成功し、若き信長は一気に注目されることになった」というのが、桶狭間の戦いの通説です。しかし、桶狭間の戦いにはいくつもの誤解があります。桶狭間の戦いの真実を紹介します。


桶狭間の戦いの真実1「尾張は小国ではない」

まず、尾張は小国ではありません。太閤検地のときの数字では五七万石。駿河が一五万石、遠江が二六万石、三河が二九万石です。駿河、遠州、三河の三国を合わせた石高の八割もあったのです。しかも、天正の大洪水までは、木曾川の本流がもっと西を流れていたので、羽島付近が尾張に入っていたからもっと差は小さく、西三河の刈谷付近でも織田方が優勢でした。

桶狭間の戦いの真実2「今川家は名門ではない」

次に、今川家は名門ではありません。足利家というと発祥の地・足利市がある栃木県のイメージが強いが、鎌倉時代には三河守護だったことが多く、この地には細川、一色吉良など多くの土着した庶流の一族がありました。そのうち、地元では吉良家がもっとも権威があり、今川家はその分家です。室町時代に駿河守護になり、この地位は安定こそはしていましたが、遠江は斯波家などと交代で守護をつとめていただけで、三河は安定して強力な守護がいなかったのに乗じて、強い影響力を及ぼしていたという程度だったのです。

桶狭間の戦いの真実3「跡目争いが応仁の乱の一因にもなったほどの名門だった織田家」

織田家は、将軍に次ぐ最高の役職である三管領の一つ斯波家に仕えていました。斯波三守護代のうち、越前守護代甲斐氏につぐ重臣で、朝倉氏より格上だったのです。尾張守護代となってのちも斯波管領家を補佐するために京都にあることが多く、一族が「又代(守護代の代理)」で現地を統治していました。織田家内の内紛が応仁の乱の発端の一つであるという説もあるくらいの有力な家系だったのです。

また、信長の父である織田信秀は、美濃の川筋者の有力者である土田家の娘(信長の母)と結婚しました。のちに豊臣大名となる土田家の縁者の生駒家や蜂須賀家など木曾川の両岸にあって武装運送業者という性格を持つ川筋者勢力との連携は、信長以前からの強みだったのです。今川家の当主である義元は信秀より9歳も年下だったので、信秀はある時期には実質的に東海地方で最強の武将となったわけです。三河にも進出し、第一次小豆坂の戦い(1542年)で勝利し、安祥城を占領し、刈谷の水野信元を味方に引き込みました。

桶狭間の戦いの真実4「信長の成長を恐れて先手を打った今川義元」

信長が美濃の新しい支配者である斎藤道三の姫と結婚したことからも、織田信長の勢いがわかります。しかし、義元も成長し、いったんは人質に取った松平竹千代(のちの徳川家康)を人質交換で今川に奪われてしまいます。信秀が死んだとき、義元は33歳、信長は18歳でしかなかったのです。しかも、信長はうつけ者だと言われていたため、今川義元が東海地方で実力ナンバーワンとなりました。

しかし、信長は天才的な政治家でした。信長が守護・斯波義統と結ぶ構えを見せたところ、守護代の大和守信友は義統を殺してしまいました。そこで、1555年信長は義統の子の義銀のために弔い合戦をしかけて信友を滅ぼし清洲城を手に入れました。

また、1559年家督争いで弟の織田信行を謀殺し、岩倉城にあった伊勢守家の守護代・織田信安も追放し、尾張全土をほぼ掌握したのです。同じ年に、信長は上洛し将軍・足利義輝にも謁見しています。これを見て焦ったのが今川義元です。このままでは信長の存在が邪魔になると予想した義元は、信長の基盤が固まる前にと先制攻撃をしかけたのが桶狭間の戦いなのです。尾張の土豪たちは様子見をしました。領地の石高からすれば、信長の支配地は義元のたいして違わなかったのですが、織田家の内紛もあり、織田家の戦況も不利と見て、信長の元には五千人の兵力しか集まらなかったのです。

しかし、信長は尾張の内戦を通じ、少数精鋭で新しい軍事行動に耐えられる家臣団の編成に成功していました。浪人の滝川一益、土豪の四男坊の前田利家、農民出身の木下藤吉郎はその典型例です。彼らは強い武将として活躍をしました。

そして、桶狭間の戦いで義元自身を討ち死にさせたことで、尾張内部は落ち着きを取り戻しました。

もしも桶狭間の戦いで今川義元が勝っていたら歴史はどうなっていたのか?

もしも桶狭間の戦いで今川義元が勝っていたら歴史はどうなっていたのでしょうか? 今川勢が簡単に尾張を直接統治できたとは思えません。また、美濃や伊勢の勢力が今川軍上洛のために京都への道を開いてくれたとも思えません。

上杉謙信が数千の兵とともに上洛して関東管領として認められたときと同じように、義元は中規模の警護の軍勢とともに、途中の大名の了解の元に通過させてもらって京都に上り、官職や幕府の要職を得たり、東海地方における軍事行動に対するお墨付きをもらうとのが限度だったのではないでしょうか。

当時は、将軍足利義輝を擁した三好長慶の全盛時代で、三好長慶を追放して「天下を狙う」といったことができる状況ではなかったのです。三好長慶の勢威に陰りが出るのは、桶狭間の戦いの翌年(1561年)に、猛将十河一存を失ったあたりからです。その3年後には長慶が死去し、さらにその翌年には、三好三人衆と松永久秀らによる足利義輝暗殺で天下は一気に流動化しました。そのころには、織田信長は尾張を完全掌握し、三河の徳川家康と同盟し、美濃と伊勢を圧する全国有数の有力大名となっていたのです。信長は信秀の死後、家督争いで問題となりましたが、短期間で父を上回る体制を立て、今川義元の来襲をしのいだことで、有力大名となったのです。

桶狭間の戦いにはこのような真実があったのです。

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