平清盛が悪逆非道と呼ばれるエピソード- 平清盛とはどんな人物だったのか:後編

大河ドラマ「平清盛」の主人公である平清盛。前編では、平清盛がどんな人物として描かれているのかを紹介しました。なぜ平清盛は悪逆非道の人物と言われているのでしょうか。後編では、平清盛が歴史上で行ったと言われる悪逆非道の事件を紹介します。


■殿下乗合事件

平家の繁栄とともに、世間は次第に平家に対して反感を強めていました。その大きなきっかけとなったのが、殿下乗合事件です。平清盛の嫡男重盛の次男で13歳の資盛は、家来たちを連れて鷹狩に出かけました。その帰り道、宮中に向かう摂政藤原基房一行と出くわします。摂政は天皇の代理であり、道で出会えば身分の低い者が馬から下りて礼をするのが礼儀とされていました。ところが、平家の若侍が、下馬をせずに、そのまま駆け抜けていこうとしました。この資盛らの非礼を、基房一行は見逃しませんでした。資盛らを馬から引きずり下ろし、痛い目に合わせました。平清盛はこの1件に激怒しました。武装した武士に命じて、参内しようとしていた基房一行を襲わせたのです。基房の家来を馬から下ろし、

「お前の主人のもとどりだと思え」

と言って、もとどりを切り、基房の乗り物のすだれを引きちぎるという暴挙に出たのです。もとどりとは髪を頭頂に束ねた成年男子の髪型で、当時の人々はこれを他人に見られることを最大の恥辱としていた時代です。そのもとどりを、平清盛の武士たちは切り取ったのです。摂政に狼藉を働くなどありませんでした。平清盛が悪逆非道と言われるエピソードです。

■天下の後白河法皇を幽閉

平家の繁栄から、平清盛を疎ましく感じていた後白河法皇は平清盛と対立をしていました。当時、平清盛は後白河法皇に対して4つの不満を持っていました。

1. 音楽会の開催

重盛(平清盛の長男)の四十九日が終わっていないうちに、石清水神社に行幸し、音楽の遊びをした

2. 所領没収

子々孫々まで保証すると約束されていた重盛の所領を、彼の死後すぐに取り上げた

3. 勝手な人事

平清盛の推す人物ではなく、反平家の立場をとる人物を中納言に任命した

4. 鹿ヶ谷事件への加担

平家打倒をめざした鹿ヶ谷での謀議に加担していた

これらの不満に平清盛は平家一門の将来を案じ、後白河法皇の捕縛を決め、後白河法皇を幽閉したのです。これらの平清盛の横暴からも悪逆非道と呼ばれたのですね。

■悪逆非道と言われた平清盛の最後

全国各地で平家に対する反乱が起きていました。反乱の火種である源氏の討伐に向かうことを決めた平清盛。源氏討伐軍の大将軍に選ばれたのは、平清盛の三男宗盛でした。ところが、宗盛一行が京を発とうとした1181年2月27日の夜半頃、出発延期を強いられる事件が起きたのです。平清盛が激しい熱病に襲われ、倒れたのです。しかも、平清盛の病は普通のものではありませんでした。水も喉を通らず、体は火を焚いたように熱いのです。周囲の人聞が8、9メートル以内に入ると、熱くて耐えられないほどだったと伝えられています。あまりの熱さに水風呂に入れても、水は瞬間的に沸騰し、体に水を注げばたちまち炎と煙になってしまったのです。平清盛から出る言葉も、「熱い」だけでした。平清盛は、「思い残すことは何もないが、頼朝の首を見なかったことだけが無念である。自分が死んだら仏事供養などする必要はない。頼朝の首をはねて仏前に供えてくれ。それが最高の供養である」と最後の言葉を残してこの世を去りました。享年64でした。

そして平清盛の死後、源氏との戦いの中で、壇ノ浦の合戦を最後にこの世を謳歌した平家は滅亡していったのです。

平清盛の悪逆非道と言われたエピソードが大河ドラマ「平清盛」ではどのように描かれるのか楽しみです。

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