弱体藩主と強力重臣が招いたお下の乱

トップの力が弱く、部下の力が強いような状態では、必ずといっていいほど混乱が起きるものです。その典型例といえるのが、江戸時代初期に人吉藩で起きたお下の乱です。


●相良清兵衛の専横

戦国時代を生き抜いた人吉藩主・相良長毎を支えた重臣に、犬童頼兄がいます。主君と同じ「相良」姓を名乗ることを許されており、「相良清兵衛」の名で知られています。清兵衛は主君への奉公をなにより大事にしてきたというが、いつの頃からかその権力をほしいままに行使し、専横をするようになっていったのです。一六〇六年(慶長十一)に清兵衛の父が死去して彼を止める人間がいなくなったこと、そして一六二八年(寛永五)に清兵衛の孫が長毎の娘を娶り、主家と親戚関係が結ばれたことで、清兵衛の力がいよいよ強まり、また歯止めが利かなくなっていったということもあるようです。

●幕府への三つの訴え

そのさまがあまりにもひどかったのでしょう、長毎の死後にあとを継いだ頼寛は清兵衛を幕府に訴えたのです。内容は以下のとおり。

  • 検地の際に尺を短くすることによって石高を小さく見積もり、差分を自分の懐に収めた。
  • 隠居する場所に裕福な町人をおいて、城下町のようなものを形成している。
  • 藩の財政をすっかり押さえ、さらに自ら私腹を肥やし、一万~二万石もの収入を得ている(人吉藩の石高は二万二千百石余であり、これがどれほど莫大なものかわかります)。

これに加え、「清兵衛の権力はあまりにも強すぎて自分ではどうにもできない、処分しようとすれば仕返しを受ける」とまで幕府宛の書状に書いています。人吉藩ではそこまで大名の力は弱かったのです。

●入れ違いから……

幕府老中に呼び出された清兵衛が老体に鞭打って江戸へ向かっている間に、人吉藩で事件が起きました。この時、清兵衛の屋敷の留守を任されていたのは養子の半兵衛という男です。清兵衛が人吉藩を離れたのと同時期に、江戸藩邸から二人の使者が半兵衛のところにやってきました。彼らに与えられた使命は「清兵衛が江戸へ向かうのを拒否した場合、連れて行くこと」でしたが、実際にはそのような事態が起きず、彼らは入れ違いになって人吉藩に到着しました。

●悲劇へと発展

ところが、半兵衛は彼らが江戸での清兵衛の様子を知っていると勘違いして尋問し、誤ってそのうちの一人を殺してしまいます。これがきっかけとなって半兵衛や一族郎党は「お下屋敷」と呼ばれていた清兵衛の屋敷に立てこもり、藩との衝突事件を起こします。いくら藩内でも有力な一族とはいえ、正面から戦っては勝ち目はありません。戦いは藩側の優位となり、観念した半兵衛は屋敷に火を放ち、一族郎党百二十一人が亡くなる惨事となってしまいました。江戸の判決を待っていた清兵衛が何もしらぬうちにおこった悲劇であったのです。

●その後の清兵衛

その後、江戸の清兵衛は高齢であることとこれまでの藩への貢献が考慮され、弘前藩主お預かりの判決を受け、事件は終結しました。しかしその後も人吉藩における「藩主権力の弱体」と「家臣たちによる権力抗争」という構造は変わらず、たびたび騒動は起き続けます。そしてついに混乱状態のままで幕末へと突入することになるのです。

榎本秋『身につまされる江戸のお家騒動』ではこの人吉藩・お下の乱のほかにも、様々なお家騒動の物語が紹介されています。興味が湧かれたらぜひご一読の程をしてみてはいかがでしょうか。

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