平氏と源氏ってそもそも何?

平清盛が属していた平氏、鎌倉幕府を開いた源頼朝や源義経が属していた源氏。名前は知っているけど、平氏と源氏がそもそも何を意味しているのかわからない人も多いのではないでしょうか。今回は、平氏と源氏を説明します。


■皇統であった平氏と源氏

平氏と源氏は、もともと天皇を始祖とする由緒ある家系でした。平氏と源氏は、貴族として中央で出世する者、地方へ下って名士となる者がいました。そのなかから、皇統という血筋のよさを武器に、武士団の指導者としての地位を確立する者が出てきたのです。やがて地方武士の集団がいくつも乱立し、武士の集団間での抗争がはじまります。平氏と源氏はそうした争いを平定しながら、下級武士の集団をまとめて支配権を拡大していき、地方武士の二大勢力となっていったのです。

しかし、その後も武士の大規模な反乱はおさまらず、ついに朝廷が介入します。朝廷は、平氏と源氏を含む有力武士を国司に任命し、それぞれの地方をおさめさせました。こうして平氏と源氏は朝廷とのつながりで武士団を組織し、政治にも関わるようになりました。さらに時代が進むと、地位を上げて上級武士へと出世し、源氏は東国を、平氏は西国を押さえ、二大派閥になっていったのです。

■平氏の台頭

平氏は恒武天皇の末裔で、高貴な家柄でした。しかし、藤原氏全盛の時代に不過な扱いを受け、平清盛の祖父正盛の代までは諸国の受領(地方長官)でしかありませんでした。中央政界とは縁がなく、内裏への昇殿も許されていなかったのです。その平氏が中央政界へ進出する契機となったのは平清盛の父忠盛の活躍でした。

父忠盛の跡を継いだ平清盛は、ほんの短期間のうちに中央政界での地位を築き上げました。政治家としての能力に秀でていたことも出世の理由のひとつですが、それ以上に保元・平治の乱における功績が大きかったのです。1156年、鳥羽上皇が亡くなると、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立が表面化します。兄である崇徳上皇は弟の後白河天皇を退位させ、自らの第一皇子重仁親王を皇位につけて院政を敷こうと画策していました。これに対し、後白河天皇は退位を拒否し、崇徳上皇に反発して見せた。

皇位をめぐる争いに、藤原摂関家の相続争い、さらに源平による武家の棟梁争いが加わり、内乱へと発展していきました…敗者となった崇徳上皇方についたのは、摂関家では藤原忠実・頼長父子、源氏では源為義・為朝父子、平氏では清盛の叔父忠正でした。勝者となった後白河天皇方には平清盛がつき、藤原摂関家からは忠実の長男の関白忠通、道憲、源氏からは為義の長男義朝が味方しました。そして、後白河天皇方は、白河殿に夜襲をかけ勝利しました。

■明暗が分かれた平氏と源氏

平治の乱前、源義朝は藤原信頼と共謀し、御所を襲って後白河上皇と二条天皇を幽閉し、山中に逃れた信西を捕らえて殺害し、都を制圧しました。藤原信頼の行為は、もはや信西との権力闘争ではなく、謀反でした。この報を聞いた平清盛は京へ戻ると、表向きは源氏に従うふりを見せながら内部工作を行ない、二条天皇を女装させて幽閉先から逃がすことに成功し、さらに後白河上皇をも奪い返しました。二条天皇から源氏追討の宣下を受けた平清盛は、反攻を開始し、御所の門を固めた源氏を鎮圧して勝利をおさめました。敗れた藤原信頼は殺害され、源義朝は知多半島の野間で味方に裏切られ風呂場で殺害されました。三男の源頼朝は、伊豆へ流罪となりました。しかし、この後、助けたはずの源頼朝に平家は滅ぼされてしまうのです。

■勝者となった源氏一族の内紛

壇ノ浦の合戦で平氏を滅ぼし、勝者となった源氏ですが、身内関係はボロボロでした。木曾義仲と源頼朝は、同じ源氏でありながら対立関係でしたし、頼朝と義経の兄弟対立など、源氏一族には内紛が絶えませんでした。内紛を繰り返したことで有力な後継者がいなくなり、源頼朝の直系は滅んでしまったのです。

武士の源流となった平氏と源氏。平氏と源氏を意識しながら、歴史を見るとさらに楽しめるのでは?

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