メディア界の女王「キャサリン・グラハム」

ある悲劇をきっかけに、長年妻として家庭を支えてきたキャサリン・グラハムは、一夜にして『ワシントンポスト』紙の社主へと転身しました。今回は怒涛の人生を送ったメディア界の女王、キャサリン・グラハムを紹介します。


夫の自殺からメディア界の女王へ

1963年、夫で前社主のフィリップ・グラハムが猟銃で自殺しました。キャサリンは夫の後継者として新聞社の経営を引きつぎました。彼女の内気で穏やかな物腰は、アメリカを代表する有力な新聞社の社主におよそ似つかわしくありませんでしたが、グラハムは周囲の不安を一掃してみせました。彼女は、アメリカ最大の新聞としての『ワシントンポスト』の地位を確立し、一大ビジネスを築き上げたのです。彼女が社主を務めた間に、『ポスト』紙は政府の圧力に屈せずペンタゴン機密文書を掲載し、ウォーターゲート事件の真相をあばいてニクソン大統領を辞任に追いこみました。グラハムは、独白のやり方でワシントンの政界・メディア界に君臨したのです。

人間味あふれるキャサリン・グラハム

実際、彼女が遺した最大の財産はその人間味あふれる態度でした。優しさ、誠実さ、思いやりを失わない経営ぶりを通じて、グラハムは影響力ある人物となりました。彼女には、他人を尊重し敬意を示すことによって、名士から社会の底辺にいる人まであらゆる相手を励まし、カづける能力があったのです。 『ポスト』紙のコラムニスト、リチャード・コーエンは、彼女が世を去った数日後に次のような記事を発表しています。

「何年か前の七月の日曜日、私はうだるような暑さの中、タクシーでビーチからワシントン市内に戻ってきた。『ポスト』本社の向かいにある自分の駐車場にタクシーをつけさせると、『ポスト』の駐車場にテントが立っていた。社員のためのパーティが開かれていたのだ。それは、署名記事を書いたりテレビに出たりしない無名の社員、新聞の広告担当者や新聞配達人、ビルの清掃職員のためのパーティだった。だが照りつける日差しの中、私はゆっくりと会場へ向かうキャサリン・グラハムの姿を目にした。  彼女はすでにかなりの高齢で、思うように歩けなくなっていた。それでも苦労しながら、斜面を一歩一歩進んでいく。バージニア州に農場、ジョージタウンに本宅、ニューヨークにアパートメントを持ち、今日みたいに暑い日にはうってつけの海辺の別荘まで持つ彼女が、こんなところで、ほかの会社なら部長クラスの人間が愛想を振りまいて終わるようなパーティに顔を出している…。信じられないことだった。」

キャサリン・グラハムの人間関係構築術

キャサリン・グラハムの生涯を振り送ると、見逃せないひとつの事実が浮かび上がってきます。高い地位につき、何不自由ない暮らしをしていたにもかかわらず、彼女は、会社と自分の名声を高めるのに役立ちそうな人だけでなく、それこそ、どんな人とも気さくに付き合っていたのです。報道によれば、彼女の葬儀にはへンリー・キッシンジャー、ビル・クリントン、ビル・ゲイツ、ウォーレン・バフェット(世界的投資家)、トム・ブローコー(NBCのニュースキャスター)などの有名人が参列したといいます。だが参列者名簿には、それ以外にも無数の「名もない人々」の署名が残っています。

人脈を広げるのが上手な人は、ネットワークをつくるのではなく、友だちをつくります。彼らは親しみをこめて誰にでも手を差しのべるがゆえに、周囲から慕われ、信頼されます。けっして計算ずくで知人の輪を広げているわけではなく、自然とみなが周りに引きよせられるのです。とりわけ彼女とヘンリー・キッシンジャー元国務長官の関係を見ると、グラハムが下心あっての付き合いでなく、純粋に友情を求めていたことがよく分かります。

一見、この二人はあり得ない組み合わせです。グラハムの功績によってキッシンジャーは何度も大きな痛手を被ったのですから。まず1971年、グラハムは、アメリカのベトナム介入の歴史をつづったペンタゴン機密文書を『ポスト』誌に掲載しました。その1年後、同紙はグラハムの指示によって、ウォーターゲート事件の真相を探り始めます。どちらも、キッシンジャーが仕えるニクソン政権に大打撃を与えるものでした。

しかし、葬儀の場でグラハムの偉業をたたえるスピーチを最初に行ったのは、ほかでもないキッシンジャーでした。二人はよく一緒に映画を観に行く仲だったといいます。グラハムは一体どうやって、こんな強い心のつながりを結べたのでしょう。どのようにして、無名の教師から世界の有力者にいたるあらゆる人と人間関係を築いたのでしょう。その秘訣は、節度を忘れぬ付き合いで信頼を育み、あくまでも遠慮深く誠実に接し、自分が心から相手のためを思っていることを伝えようとする、彼女独特の態度にありました。キッシンジャーはCNNのインタビューに答えて、こう語っている。

「『ポスト』紙と私の意見が対立しがちだったことを思えば実に不思議な友人関係でした。けれど彼女は絶対に、自分の新聞のために友情を利用しようとはしませんでした。特別取材などを申し込まれたことは、一度たりともなかったのです」

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