中国の英雄雑学

始皇帝、項羽と劉邦、三国志の劉備、孫権、曹操など中国には多くの英雄が存在します。今回はそのなかでも特に有名な英雄たちを紹介します。


■東アジアの秩序を完成させた秦の始皇帝

戦国時代の混乱をおさめたのが秦の始皇帝です。都は咸陽です。始皇帝は郡県制を採用し、全国36郡のち48郡に中央から官史が派遣されました。地方は中央に懸かっているのです。「県」のもとは「懸」という文字です。

秦は法家思想を重んじました。法家の李斯は思想を統一し、焚書坑儒を行ないます。法家以外の書物は火で焼き、儒学者を生き埋めにすることです。始皇帝の陵墓では棺のわきには小川が流れ、夜空の星のセットまで設けられました。臆病な始皇帝は来世でも秦の兵隊に守ってもらおうと兵隊たちを生き埋めにしようとしました。さすがに諌められたため、実在する兵隊の彫像ととともに埋葬されることになりました。これが兵馬俑です。

■法家ゆえ統一でき、法家ゆえ短命だった秦

前209~208年に長城修復工事をきっかけに陳勝・呉広の乱が起きました。長城での仕事の日に暴風雨になり、陳勝と呉広は遅刻確定でした。秦は信賞必罰の法治主義を追求する法家を重んじる国だったため、遅刻は斬首の刑となりました。そのときの陳勝の言葉が「王侯将相いずくんぞ種あらんや」です。「人間は立場とともに生まれてきたわけではないぞ!」という実力行使の叫びに、遅刻組900人が呼応しました。

■項羽より強かった劉邦、劉邦より強かった冒頓単于

陳勝・呉広の乱の中から頭角を現したのが楚の項羽と漢の劉邦です。2人は遊牧騎馬民族である匈奴の首領、冒頓単于と三つ巴の争いを演じます。劉邦が前206年に秦を滅ぼします。前202年の垓下の戦いで劉邦、つまり前漢の高祖が項羽を破って長安を都に前漢を開きます。

「四面楚歌」はこのときに生まれた故事成語です。垓下に項羽を包囲した劉邦でしたが、なかなか落とせません。それで項羽の国、楚の歌を知っている部下に歌を歌わせます。項羽は味方にまで裏切られたと早合点し、愛妻の虞美人と最後の別れをし、強行突破をはかって討ち死にしました。しかし劉邦は、前200年の白登山の戦いで匈奴の冒頓単于の捕虜になり、釈放されます。匈奴の冒頓単于は父を殺して、首領(単于)になり、父のあらゆるものを手に入れました。父の妻もです。これが北方遊牧民、つまり胡人の振る舞い方です。

■「三国志」の時代へと移行した背景

後漢末には疫病・飢饉・イナゴの大量発生などの天災に見舞われ、治病を説く宗教が流行しました。張角の太平道と張陵の五斗米道(天師道)がその代表で、張角を指導者として184年に黄巾の乱が起き、その中から曹操、劉備、孫権が登場します。『三国志』の英雄たちです。

■三国時代から唐まで「分裂から統一へ」

220年、後漢の献帝が魏の曹操の子曹丕に禅譲し、魏が洛陽の支配者となります。漢の皇族であると自称した劉備は221年に成都を都に蜀を建国、有能な諸葛亮(諸葛孔明)を「三顧の礼」で迎えます。後漢末の208年の赤壁の戦いでは呉の孫権と連合し、天才的な戦術で曹操を破った諸葛亮も、234年の五丈原の戦いで司馬懿(司馬仲達)に敗れ、陣没します。結局、蜀は魏により滅亡します。しかし魏は司馬懿の孫の司馬炎の晋に乗っ取られます。280年に晋が建業(現南京)を首都とした呉を滅ぼして三国時代は終わります。

古代中国から三国志の時代は面白い時代です。英雄たちから歴史を学ぶことで今に役立てましょう。

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