ナポレオンが時代の寵児になった理由

ナポレオンは稀代の英雄と呼ばれています。それはまさに時代の寵児とも言えます。では、なぜナポレオンは時代の寵児となったのでしょうか?


■ナポレオンが生まれた時代背景

5人の総裁が行政を担当する総裁政府が成立します。この政府が自由経済政策をとったため、下層市民と農民が離反し、ジャコバン憲法施行を求める暴動が多発したり、王党派の反乱、さらには「私有財産は罪である」と言った共産主義者バブーフの陰謀が起きたりと、総裁政府は不安定でした。このような理由で強力なリーダーシップが待望されるようになりました。そんな中でナポレオンが登場します。

■ナポレオン登場

ナポレオン=ボナパルトはコルシカ島の貧乏貴族出身で砲兵仕官になりました。革命中はジャコバン派を支持し、テルミドールの反動で一時投獄されましたが、1795年には王党派のヴァンデミエールの反乱を鎮圧し、国内軍司令官に任命されます。

1796年にはイタリア遠征司令官として第1回イタリア遠征を敢行し、オーストリア軍を撃破します。カンポフォルミオの和で第1回対仏大同盟を解体しますが、この条約でフランスは南ネーデルラント(現ベルギー)とアドリア海諸島を獲得しました。

1798年、ナポレオンはイギリスのインド支配打倒をもくろみ、エジプト遠征にとりかかります。しかしアブキール湾の戦いでネルソン率いるイギリス艦隊に敗北します。ナポレオンのエジプト遠征のときに第2回対仏大同盟が結成されました。この間の1799年の11月9日の「ブリュメール18日のクーデター」で統領政府を樹立し、フランス革命に終止符を打ったのがナポレオンです。

■ナポレオン法典の要点

1804年にはフランス民法典(ナポレオン法典)を発布。これは、全文2281条の民法典で、人身の自由、法の前の平等、私的所有権の絶対、契約の自由、良心の自由などブルジョワ市民社会の基本的権利を規定したものです。

「余の名誉は40回に及ぶ戦勝ではない。永遠に残るのはこの民法典である」

とナポレオンは言ったといわれています。

■フランス第1帝政(1804~15)

1804年、ナポレオンは国民投票で皇帝に就任。ナポレオン1世を名乗ります。ノートルダム寺院に教皇ピウス7世を呼びつけ戴冠させ、自らの手で皇后ジョセフィーヌに戴冠しました。その絵を描いた画家がダヴィドです。フランス帝国成立に対して第3回対仏大同盟が結成されます。

ナポレオンは1805年のトラファルガーの海戦では再びネルソンに敗れ、イギリス上陸作戦に失敗します。しかし、12月2日には霧の中、アウステルリッツの三帝会戦でロシアのアレクサンドル1世とオーストリアのフランツ1世を破り、ヨーロッパを驚愕させます。英首相小ピットは心痛から死亡しました。こうして第3回対仏大同盟は解体します。

■ナポレオンの最盛期

ナポレオンは1806年には南西ドイツ、つまりオーストリアとプロイセンを除く全ドイツの保護者となり、ライン同盟を結成します。こうして1648年のウェストファリア条約ですでに有名無実化していた神聖ローマ帝国は滅亡しました。さらにナポレオンは、兄ジョセフをナポリ王のちスペイン王に、弟ルイ(のちのナポレオン3世の父親)をオランダ王に据えます。続いて、イエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンとロシアを破り、ベルリンを占領します。このとき、占領下のベルリンでは哲学者フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』という連続講演を行ない、ドイツ人のナショナリズムを高揚させました。

ナポレオンは「大陸封鎖令」で対イギリス経済封鎖とフランス資本の大陸市場独占を図りましたが、イギリスとの貿易に依存していた大陸諸国にとっては大打撃でした。さらにナポレオンは対ロシア、対プロイセンのティルジット条約で、プロイセンの領土を半減させ、その西にベートーベンが生活したウェストファリア王国、東にワルシャワ大公国という国を建設し、支配しました。

1808年にはスペインを征服しますが、半島戦争ではゲリラに悩まされ、最後まで鎮圧できませんでした。プロイセンでは国政改革が進められました。シュタインの農奴解放と都市自治、それを受け継いだハルデンベルクの農民への土地授与、中央政府機構の整備などの改革、シャルンホルスト・グナイゼナウの国民軍の創設などの軍政改革、フンボルトの教育改革とベルリン大学の創設(1810年)などです。ベルリン大学の初代の総長がフィヒテです。のちに世界史を「絶対精神実現のプロセスだ」と単線的な進歩史観で定義した弁証法で有名なヘーゲルも教壇に立ちました。

■ベートーベンとナポレオン

ナポレオンは1810年にオーストリアの皇女マリ=ルイーズと結婚します。とうとうハプスブルク家と姻戚関係になったんです。音楽家のベートーベンは当初、ナポレオンに新しい時代の風を感じ、交響曲「ボナパルト」をつくりました。しかし、皇帝即位の報に接し「ただの凡人だったのか!」と表紙を破り捨て「英雄」と変えてしまいます。それが交響曲第3番「英雄」です。ベートーベンのピアノ協奏曲第5番は「皇帝」です。ベートーベンは、ナポレオンという一人の人間では表現しつくせない「皇帝」像をピアノ協奏曲で表現したのです。

■ナポレオンの斜陽期

大陸封鎖令に違反した懲罰として始まったのがロシア遠征です。ナポレオンはボロジノの戦いののちにモスクワを占領しましたが、ロシアのクトゥーゾフ将軍の焦土戦術の前に退却しました。1813年に第4回対仏大同盟が結成され、それにヨーロッパの大半の国が参加しました。そしてロシア遠征の帰路、ライプチヒの諸国民戦争で多国籍軍に敗れ、地中海のエルバ島へ流されます。

ナポレオンが退位し、ウィーンで会議が開催されました。しかし、「議会は踊る、されど進まず」。舞踏会は盛んでも、肝心の議事進行がままならず、そのうちナポレオンがエルバ島を脱出します。ナポレオンは帝位に復位し、再度皇帝になります。これに対して第5回対仏大同盟が結成され、ワーテルローの戦い(現ベルギー)でナポレオンはイギリスのウェリントン将軍に負け、南大西洋のセント=ヘレナ島に流されました。

なぜナポレオンが時代の寵児となったのか理解できましたね。最後は戦争に敗れ失脚をしてしまいましたが、ナポレオンから学ぶべきことがたくさんあります。

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