仏教あるある

日本に浸透している仏教。しかし、私たちの世代では仏教について知っている知識は少ないですよね。仏教あるあるを通じて、仏教について理解しましょう。


■仏教では感情を人格化しない

ヒンドゥー教では「ブラフマンは創造する。それからシヴァという神は破壊する」と、きちんとふたつに分けて考えています。人間の感情や行動などすべてには神が宿っている、とヒンドゥー教では信じられていますから、そういうふうに神の世界もふたつに分けて考えるのです。

キリスト教などでは、愛情を人格化して「神」というし、憎しみや嫉妬や怒りを人格化して「悪魔」といいます。そうすると、人間は「やっぱり神さまを拝まなくては」「悪魔と戦わなくては」というふうに、何かを頭の中で想像して、イメージをつくって行動します。それで「神はいるか、いないか」「悪魔はいるか、いないか」と、いろいろなことを考えたり哲学したりして、時間を浪費しているのです。このように感情を人格化すると、話としてはわかりやすいですが、実践は不可能です。問題を具体的に見ることができません。

ですから仏教では、人間の感情を人格化しません。最初にわかりやすくしようと考えて人格化してしまうと、人間は結局「そういうものは自分とべつに存在しているのだ。自分は誘惑されているだけだ。自分は悪くない」と他人のせいにして、自分を「いい子」にしてしまうのです。「私が悪いのではない」という態度を取るのです。そういうふうにして、自分の心を見ることを避けようとします。そこから大きな間違いが起こるのです。したがって、「人間の感情を人格化しないように気をつけて、科学的に分析してみなさい」と、仏教では教えるのです。

■仏教では正しいことが一番大事

仏教では、正しいことを実行することがいちばん大事なのであって、「部下だから」とか、「課長だから」「社長だから」「家の主人だから」とかいうことは一切関係ありません。気にするべきなのは、「その行動が正しいか正しくないか」という点だけです。  たとえ子供でも、正しいことを言ったらみんなで認めて実行するべきです。「子供のくせに、生意気ではないか」などと言う人がいたら、その人こそ無知な間違いを恥ずかしがるべきなのです。

■仏教における無視とは

仏教の無視は僧伽という議会制度で全員一致で正式的に決める法律的な罰なのです。この場合は、罪を犯した人に正式的に「無視することになりました」と報告するのです。

■仏教における怒りとは

仏教では、「今の自分に気づいていない人」のことを「愚か者」「死んでいる人」「寝ている人」という意味の言葉で呼んでいます。怒ったその瞬間に自分の怒りに気づけない人は、怒りの塊になります。それでひとしきり怒ったあとで、「ああ腹が立つ」などと自分が怒っていることを自覚するのです。ひどいときには三年経っても「あのときは腹が立った」などと思い出して、また怒って、そのたびに自分を何度も破壊することになります。

■悟りを開くとエゴがなくなる

完全なる悟りを開いて阿羅漢になったということは、「実体=エゴ」が頭の中にもまったくないということです。一瞬一瞬の無常に完全に気づいている「ヴィパッサナー」の智慧で生きているのですから、たとえぶたれても、サーリプッタ尊者にとっては、それはある瞬間、物質が物質に触れただけのことです。そこで痛みが生まれても、心は痛みを感じて、「あっ、痛み」というだけで終わりということになります。「私は痛い」とか「私はぶたれた」という発想は、無意識のところにもありません。だから、そういう態度でいられるのです。

いかがでしたか? 仏教は難しいけれど、あるあるや雑学から少しずつ勉強してみましょう。

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