仏教と笑い。仏教から見ると笑いは毒

笑うというのは、刺激が強い状態です。特に大笑いしている時はかなり興奮しています。テレビのお笑い番組に人気があるのは、世の中に強いストレスがあり、笑いという、より大きな刺激を与えることによって現実のストレスを打ち消そう、忘れようとする潜在的な願望があるからでしょう。しかし、仏教からすると笑いは毒と考えられます。仏教と笑いを紹介します。


笑いは毒

笑いは3つの毒のどれかから成り立っています。

1. 他人の失敗を馬鹿にする優越感=「慢の欲」による笑い。
2. ツッコミを入れる攻撃性=「怒り」への感情移入による笑い。
3. 不条理な言葉や振る舞いにより生じる混乱=「無知、迷い」による笑い。

つまり、ぼんやり画面を見ていると、欲・怒・迷の業を刷り込まれてしまう性質を持っているのです。そのうえテレビでは、「ここが笑いどころですから笑うべきである」と命令してくるかのごとく、サクラの笑い声が流れたり画面に文字が流れたりして、同調圧力が与えられます。笑いには「皆が笑っているのだから自分も笑わなければ仲間はずれにされるのでは」という恐怖感にもとづく、同調圧力も含まれているのではないでしょうか。

自分や相手の表情をよく観察しよう

心から楽しく穏やかな気持ちで笑っているのであれば良いのですが、嘲笑いや苦笑などは、人を攻撃して、怒りを笑いに変えている状態ですから、よく観察してみると、その表情はひきつり、笑い声は甲高く下品なものになっています。

たとえば周囲の人々が誰かをバカにして笑っているような時も、人の表情を観察し、一歩引いてズームアウトしておけば、「この人たちはいまこういう煩悩で、嘲笑しちゃっているのだな、しょうがない」という慈悲の心持ちが生まれますので、一人ムッとしたり、あるいは周りに合わせるためにつくり笑いするでもなく、穏やかな、うっすらとした微笑が生まれることでしょう。

常に自分や相手の表情をよく観察しておけば、心に余裕が生まれ、心に余裕ができれば、自然と穏やかな微笑が浮かびます。自分がつくり笑いや大笑いをしていることに気づいたら、より穏やかな微笑の方向に持っていく。少し口角を上げて穏やかに微笑む程度であれば良いでしょう。無自覚に大きな刺激に飲み込まれてしまうクセを、止める練習になります。また、人をバカにして笑う時は相手を攻撃していますが、自分の失敗を笑う場合も、同じような心理です。

本当は失敗したくないのに、うまくいかない。それではプライドが傷ついて悔しいので、「バカにする自分」と「バカにされている自分」の二つに自分を分裂させるのです。そして、悔しい、これは嫌だと思った瞬間、バカにする自分のほうに立っています。

その行為によって、失敗していることをきちんと認識して笑えている、頭の良い自分でいたい、という煩悩による自己イメージを持ちたいのです。このように、たいていの笑いには現実を忘れようとする「無知」の妄想を育む性質があるように思われます。それとともに、目にも止まらぬ速度で、「ごまかし」の思考や「バカにする」思考のノイズが増殖してゆくということに、気をつけていきましょう。

自らの表情をチェックしつつ、緊張を取り除いた柔らかい微笑を浮かべていたいものです。それがつくり笑いになってしまわないためには、欲や怒りの煩悩を鎮めているのがもっとも大切なのです。

仏教からみた笑い、奥深いですね。

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