なぜ「1995年」がタームなのか?

現代史をつむぐにあたって、1995年というキーワードが頻繁に登場します。速水健朗による『1995年』(ちくま新書)や、中西新太郎による『1995年:未了の問題圏』(大月書店)といった1995年をタイトルに冠した本も出版されています。そもそもなぜ1995年が注目されるのでしょうか。


震災とオウム

1995年をとらえるにあたって2つのキーワードがあります。それが震災とオウムです。1月17日に神戸を中心とする阪神・淡路大震災が起こります。この地震は都市直下型地震であり、救急車や消防車といった緊急車両が渋滞のために救助に向かえないといった問題を浮き彫りにしました。さらに3月に入るとオウム真理教が問題となります。3月20日には地下鉄サリン事件も発生しました。震災とオウムは、どちらも日本は安全であるといった神話が崩れた瞬間であると言えます。

戦後50年

もうひとつ1995年のキーワードとなるのが戦後50年です。この年に社会党の総理大臣だった村山富市によって「村山談話」が発表されます。日本がアジアの各国を支配し植民地支配したことを認め謝罪を行うものです。これはひとつの誠実な態度と言えますが、一方で「自虐史観」といった批判が生じ、「日本はスゴイ」「あの戦争は正しかった」といった論争が巻き起こることになります。今のネット空間を支配している議論の萌芽が1995年にあったとも言えるでしょう。

戦前と戦後

さらに1995年は、まだ戦後50年ということもあって戦争の記憶を持つ人が生きており、現役であった時代だとも言えます。終戦時に20歳だった人が、現在70歳であるわけですから、まだまだ社会に記録の継承を行う素地があったのです。それがしっかりとなされていたかどうかは今現在の姿を見る限り疑問が残るところではあるでしょう。

    
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