DVを治療するために

DVを治療するためには、DV加害者がDVを治療するために知っておかなければならないことがあります。


DVは自己責任である

自己責任は二つの特殊な意味で用いています。第一は自分の言動・行為は自分が起こしているとの認識です。例えば夫が「いくら自分が筋道たてて妻に説明しても分からないから、殴るしかなかったんだ」と言う時、「妻が分からなかったら、殴る以外に選択肢はない」と考えていることになります。彼は妻の言動が暴力の原因と認識しています。しかし「自分の説明を妻が分からない」ことと「殴る」ことを直接結びつけるのは大変な飛躍であり、この両者間には多くの選択肢があるはずだが、それを無視しています。要するに加害側にとって、暴力に至る理由は全く本人の裁量にまかされ、何でも設定可能になるのです。

「暴力が相手によって起こっている」と認識している限り、暴力をなくすことはできません。相手が自分の感情・行動をコントロールしていると思っているからです。「暴力は自分が起こしている」と認識することによって初めて、暴力をなくす主体が生まれるのです。

自己責任の第二の側面は、相手の言動・行動が加害男性自身に起因している点を認識することにあります。これは「相手の行動は自分の責任」という認識です。関係を修復するためには、夫が現在どれほど辛い気持ちで、将来への不安があったとしても、妻の立場・思いを最大限感じ取ることから出発する以外にありません。

これまでの殴打や罵声、無視、といった行為が、現在の妻の矛盾ある行動、混乱、つれない仕打ちにいかに反映されているかを把握する姿勢、これが自己責任の第二の側面なのです。DVを継続する加害者は、「自分の行動は相手の責任/相手の行動は相手の責任」と見なしており、「無責任の達人」なのです。そして言葉巧みに相手の罪悪感を誘発して言いくるめる加害者はとても多いです。DV克服を真摯に目指す加害者は、「自分の行動は自分の責任/相手の行動は自分の責任」と見なしています。これがDV治療における「自己責任」の概念である。

主導権の放棄:主導権が被害側にあることを認める

加害男性は夫婦が対等でフェアな関係を否定してきたので、被害側が主導権をとるというフェアなあり方を十分体験することを通過しなければ、関係の修復は望めません。

ジェンダーに執着する加害男性にとって、主導権の放棄は自らの優越性を否定される恐怖を引き起こし、少なくともDV克服を目指す以前にはかたくなに拒否します。しかし、いったん、被害者に対する主導権を手放してしまうと、加害男性にとってあれほど主導権にこだわっていたのが不思議に思えることが多いです。主導権を相手に譲り渡したとしても、それが「自分の存在が否定される」とは別のことなのだ、ということを体験しているからです。

信頼を期待しては反故にされるという事態を繰り返していくと、相手に対する信頼感とそれに伴う忍耐を一生分消費してしまいます。そしていったん、その一生分の量を使い尽くしてしまうと、もはや回復不可能となってしまいます。例えば、アルコール依存症の場合、一度発症した場合、酒をコントロールして飲めない身体となり、一生酒を断つこと以外に回復の道はなくなります。たとえ20年、30年断酒していようと、酒が1cc喉を通っただけで逆戻りしてしまうのです。それゆえ、治療者は断酒者に対して「あなたはもう一生分、酒を飲み干したんです」と言うことがあります。DV被害者の場合もそれと非常に似通っています。

夫婦や恋人の関係では、親密性を実現できる男性にとって、まず「相手が健康でいてほしい。苦しいこと・悲しいことがあれば、一緒に協力して何とかしたい」と思うのが自然です。加害者は、肝心な点で、相手が喜びと感じることが自分にとって苦痛であり、相手の痛みは自分にとって関心外です。加害者が自分の思いどおりに振る舞うと、相手を抑圧し、不快にします。相手に満足があるということは、自分にとって屈服であり、「勝ちー負け」以外の関係が体験できません。

しかし、本当に成熟した男性は、自分の思いどおりにすることがあったとしても、自分の欲求の中に相手の存在が入っているため、相手にとっても居心地よい場合も十分ありえます。それは基本的に相手を苦痛にさせるような性質の欲求の示し方は好まないからです。そして、相手と対立することがあっても、「話し合いは相手に言うことをきかせる手段」ではなく、自分の立場が尊重されることと、相手の立場が尊重されることが同等であることを基本前提にしています。「自分を大事にすること」と「相手を大事にすること」が両立する体験を積んでいるのです。

暴力がない期間の暴力被害の苦しみの存在

暴力の破壊的作用は、その行為による直接のダメージだけではありません。加害側にとっての暴力の苦痛の理解は、被害者が殴られた時の痛みや恐怖感、相手への怒り、といった範囲にとどまっています。

しかし、被害者にとっての苦しみは、暴力のない期間にある方が、むしろ持続的で深刻です。被害者にとって、加害男性への許しがたい憤り、恐怖感、感情の慢性的抑制による消耗などの苦しみは、暴力のない時にも持続します。

さらに、被害者にとって当然とも思える周囲への救援行動も、夫や自分の親兄弟からの無理解や非難にさらされ、孤立や無力感にさいなまれるという二次被害を体験します。そして二次被害という名のつれない仕打ちは、友人、職場の人々、警察、病院、役所、と次々に連鎖し、まるで世界全体が自分に敵対してくるような孤立無援状態に追い込まれることも稀ではありません。

暴力は人生を苦しみに満ちたものにします。これらは暴力から派生する苦しみですが、加害男性の直接行為ではないので、自らの責任とは認めにくいのです。「自分がしてないことにまで、責任を問われるのはたまらない」と思いがちです。一般に、他人の行為にも責任をとらねばならないのは、理不尽です。

しかし、元来あってはならないはずのDVがこれらの不条理を生み出すのです。「DVは被害者が他者とかかわる部分まで、連鎖的な破壊作用をもたらす」ということを、加害側は理解しなければいけません。それゆえ被害側が、これら「暴力がない期間の暴力被害の苦しみ」の持続に対して、加害側の最大限の理解と配慮を求めるのは正当なのです。

DV加害者にとっては、自分が直接行使した暴力そのものだけでなく、そこから派生するパートナーの苦しみの総体に耳を傾ける姿勢なくして、信頼回復のプロセスはありえないのです。

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